この門は、旗本芦野氏の陣屋(現御殿山)の裏門として建造されたもので、長屋造りである。芦野城は、16世紀半ばの築城とされ、江戸時代には芦野氏の住居(陣屋)が二の丸(広場)に置かれた。陣屋には表口と裏口に二つの門があり、表門は二の丸の西南に位置し、四脚門(よつあしもん)であった。この門は広場北側に建っていた。
 明治維新の新政により、陣屋の意義が失われると、建築物は希望者に売り渡された。その時、大塩家の祖先が買い受け、解体して現在地へ復元移築したものである。(表門は高瀬の渡辺家が買い求め、移築するはずであったが、損傷、滅失し、現在は残っていない。)
 この陣屋裏門は、左右対称ではなく、向かって右側に中間部屋(ちゅうげんべや)、左側は厩(うまや)になっており構造的に左側に長い門であったと思われる。
 芦野氏は、鎌倉時代の吾妻鏡に 「葦野地頭」 として登場し、その後、14世紀半ば那須氏が那須地方に勢力を拡大すると、那須氏から養子を迎え、那須系芦野氏となった。江戸時代には、交代寄合旗本として現在の大字芦野、富岡、大畑、梓、大島、漆塚と芳賀郡の赤羽村をはじめ下の庄と呼ばれた村々を含め3,016石の領主であった。実高は一万石に近かったと思われる。江戸城では帝鑑の間詰め(ていかんのまづめ・溜之間に次ぐ部屋で、譜代衆、交代寄合が詰めた部屋)の格式で、参勤交代をした旗本である。
 この陣屋裏門は、芦野氏陣屋の遺構を現代に残し、芦野氏の格式を現在に伝えるものである。
   (那須町教育委員会)

芦野氏陣屋裏門碑

芦野氏陣屋裏門

芦野氏陣屋裏門解説