メニュー
前へ   氏家~佐久山 次へ   大田原~芦野

奥州街道   (佐久山~大田原


平成30年9月8日(土)    ☁/☂    佐久山~大田原    14.0㎞
昨日は矢板駅前に宿泊し、今朝雨が降っていればここで帰ろうと思ったが、どんよりとした曇空であるので先に進むこととし、タクシーを呼んで佐久山郵便局前まで向かった。雨具は一応用意はしてるいるが、小さな折りたたみ傘のみで、カッパを用意していないのでゲリラ豪雨には対応できない。佐久山宿からは、大田原宿・鍋掛宿と続く。

枡形道 正浄寺 岩井橋 花のある道
昨夜降った雨で街道は濡れ、空はどんよりと曇っているが雨は落ちていない。
昨日の続きは、右に曲がる枡形道からである。
枡形道を右に曲がり下っていくと、左手に浄土真宗本願寺派の川越山無量寿院正浄寺がある。
正浄寺の創建年代等は不詳であるが、檀家有志が一子相伝の形で伝承してきた雅楽が春秋彼岸などに催されている。
境内には芭蕉句碑 「花の陰 謡に似たる 旅寝哉」 がある。
街道に戻って先に進むと、箒川に架かる岩井橋がある。
箒川は那須塩原市の白倉山付近に源を発し、下流で那珂川に合流している。また岩井橋は車専用橋であり、上流側に設置された側道橋で渡っていく。岩井橋の上流には、佐久山観光ヤナがあり、川面を渡る風の中でアユを味わうことが出来る。
岩井橋の渡詰め左手の歩道と車道の分離帯に花壇が設けられている。

馬頭観音 養福院 イトヨ生息地 加茂神社・大杉神社
花壇の先から上り坂となり、その左手の段上に馬頭観音が6基建っている。
安永7年(1778)・嘉永4年(1851)の馬頭観音をはじめ、明治・大正・昭和のものである。
緩やかな坂を上り詰めたところにあるT字路交差点を過ぎて400mほど進むと、左手に真言宗智山派の西松山養福院がある。
養福院の創建年代等は不詳であるが、境内には愛宕大権現のほか、馬頭観音・二十三夜塔などの石造物がある。
街道に戻ると直ぐ左手の筋角にイトヨ生息地0.6㎞の道標があり、田圃道を進むと右手の田谷川にイトヨ生息地がある。
イトヨはトゲウオ科イトヨ属の魚で、背中に3本、腹部に1本のトゲがある。成魚の体長は4~5㎝程度で、オスは春の産卵期になると水草などで巣を作り、ジグザグダンスと呼ばれる求愛行動をとるという。
イトヨ生息地田谷川の北側に加茂神社・大杉神社がある。
鳥居・拝殿ともに加茂神社・大杉神社の扁額が掛かり、創建年代等は不詳であるが、境内には中之宮と星之宮のほか、大黒天・石祠などの石造物がある。

長屋門 田谷川 長屋門 題目碑
街道に戻ると左手に植栽に隠れた長屋門を構えた旧家がある。 長屋門の直ぐ先でイトヨ生息地から流れる田谷川の清流が街道を横切っている。
この橋の左手の中洲に聖徳太子碑と祠が建っている。
田谷川を過ぎて100mほど進むと左手に四脚門を構えた旧家があり、その隣に重厚な長屋門を構えた旧家がある。 先に進んで自販機が並ぶ秋元商店を過ぎると、左手に祠があり、中には南無妙法蓮華経題目碑が安置されている。

深川橋 牛魂碑 地蔵堂 直線の街道
題目碑の直ぐ先に深川に架かる深川橋があり、橋を渡ると親園交差点となる。深川は、北西の大田原市実取にある温泉神社付近に源を発し、下流で箒川に合流している。
親園交差点の右手には、木製道標 「←蒲蘆碑・町初碑1.3㎞、イトヨ生息地1.1㎞」 が建っている。
先に進み小さな清流を越えると、右手のJAなすの親園支店の駐車場脇に大きな牛魂碑が2基建っている。 JAなすの親園支店を過ぎて、街道が左に曲がる右手に地蔵堂がある。
地蔵堂には、比較的新しい2体の地蔵尊と風化した1体の地蔵尊が安置されている。
地蔵堂の先は、真直ぐ北に延びる街道が続いている。

薬王寺 赤マツ 磯家氏神様 陣屋跡
先に進むと、左手に薬王寺の看板が建ち、その奥の突き当りに真言宗の瑠璃光山薬王寺がある。
薬王寺は享保4年(1719)の創建と言われ、境内には馬頭観音・百万遍供養塔・如意輪観音などの石造物がある。
街道に戻ると右手に与一の里名木選 「国井宅の赤マツ」 が聳えている。
この赤マツは、目通り周囲1.7m、樹高7m、推定樹齢約200年の古木である。
街道に戻り左手の小高商店の手前を左に入っていくと磯家氏神様がある。
荒れた敷地内に今にも崩れ落ちそうな御堂が建っている。かつては周囲に石仏があったようだが見当たらない。
街道に戻って小高商店の向いの筋を入っていくと、突き当りに陣屋跡がある。
ここには陣屋跡標石が建っているだけであるが、享和3年(1803)から20年間この地は幕府領となり、代官山口鉄五郎高品が治めていた。

女神橋 蒲蘆碑(ほろのひ) 湯殿神社 町初碑(国井家)
街道に戻って進むと、加茂内川に架かる女神橋がある。
橋の名前の由来となったかどうかは定かではないが、橋の左手の林の中に弁天祠があり、手前に元文3年(1738)の大乗妙典六十六部供養塔が建っている。
女神橋を渡って150mほど進むと、左手の湯殿神社の参道口に蒲蘆碑が御堂内に安置されている。
蒲蘆碑は、代官山口鉄五郎の善政を讃えたものである。碑文には楷書で本文150文字が刻まれている。
湯殿神社は、建久6年(1195)那須与一の勧請で八木澤村の鎮守である。
鳥居をくぐると大正・昭和の常夜燈が3基並び、参道の途中に1対の文久元年(1861)の湯殿山と刻まれた石燈籠が建っている。
街道の戻ると直ぐ右手に代々名主を勤めた国井家がある。
門は八木沢村陣屋から移築したもので、門脇に町初碑が建っている。

筋違橋 百村川 護法寺 馬頭観音
先に進むと百村川(もむらがわ)に架かる筋違橋がある。
この橋は、百村川の流れに対して斜めに架橋されている。百村川は、那須塩原市に源を発し、大田原市の市街地を流れ、下流で箒川に合流している。
筋違橋を渡ると、百村川に沿った道が約1㎞ほど続いている。
かつては八木沢村から大田原宿の間に那須野原で一番美しいといわれた 「松並木」 があったが、戦時中の松根油搾取のために全て伐採されてしまった。
先先に進むと右手に日蓮宗の長遠山護法寺がある。
護法寺の創建年代等は不詳であるが、山門脇に文政9年(1826)の南無妙法蓮華経題目碑があり、境内には水子子育地蔵尊・聖観世音菩薩立像・稲荷大明神などがある。
護法寺の先で暫く街道に沿っていた百村川は左に逸れていき、更に600mほど直進して信号十字路を渡ると、左手に馬頭観音がある。
大きな碑の脇に小さな明治・大正・昭和の馬頭観世音が並んでいる。

八幡神社 サルビア 大田原宿新田木戸跡 忍精寺
続いて右手の浅野公民館のところに八幡神社がある。
この地は天保12年(1841)以来、加勢友助等によって開墾され、八幡神社はその鎮守として安政2年(1855)に勧請されたものである。
参道口に加勢友助翁碑があり、境内には安政6年(1859)の石燈籠、稲荷神社などがある。
折しも、明日の例大祭の準備で、地元の方たちが境内・社殿などの清掃に追われていた。
街道に戻って進むと、車道と歩道の間にサルビアの咲く分離帯が続いている。 浅香3丁目交差点を越えてどんどん進み、Y字路を左に進むと、右手の理容芦野の手前に 「旧奥州道中大田原宿新田木戸跡」 がある。
ここは大田原宿の江戸口である。
直ぐ先で国道400号線に突き当たり、神明町交差点を右折すると右に浄土真宗東本願寺派の光明山忍精寺がある。
忍精寺は文政11年(1828)11代藩主大田原愛清の開基といわれ、境内には大樹がある静かな佇まいの寺院である。

愛宕神社 薬師堂 大田原宿下町碑 本陣・問屋・高札場跡
忍精寺の街道を挟んだ向かいに愛宕神社がある。愛宕神社は、文明3年(1471)に創建され、大田原城を築いた際、火伏の神として愛宕権現を祀ったことに始まる。
かつて神社の周辺には池が広がり、その中島に愛宕社が祀られていた。境内には文政11年(1828)の大黒天、享保13年(1728)の庚申供養塔、六角宝幢などがある。
街道に戻って進むと左手に薬師堂がある。
薬師堂は、大田原城四方固めの一つ西薬師と呼ばれ、薬師如来が祀られる小堂宇を、寛永年間(1624-44)に大田原氏が再建したと言われる。現在の建物は、寛政5年(1793)に9代藩主大田原庸清(つねきよ)が再建したものである。
境内には、宝篋印塔・七重塔・舎利塔のほか、供養塔・石碑などがある。
薬師堂から左手一本目の筋角に建つ旧甲州屋旅館の建物脇に 「旧奥州道中大田原宿下町」 碑が建っている。 大田原宿下町碑から120~30mほど先、右手のパインズ温泉ホテル大田原を過ぎると、「本陣・問屋・高札場跡」 標札が建っている。
本陣は、印南家が勤め、問屋を兼ねていた。敷地980坪(3,242㎡)、建坪381坪(1,260㎡)で奥州道中最大の規模であった。常備に人足25人、馬25疋が置かれており、本陣脇には高札場が置かれていた。

幸矢の与一像 正法寺 金燈籠 和泉屋醤油店
更に120~30mほど先の左手、大田原信用金庫本店の前に幸矢の与一像が建っている。
那須与一は、文治元年(1185)源平屋島の合戦の際、見事扇の的を射抜いたことで知られるが、若き日は那須の山野にあって烈しく厳しい修練の時を過ごした。その昔、弓矢を幸と称したように、今、手練の弦を離れた与一公の幸矢の彼方には、人々の幸せと郷土発展の願いがあり、その思いを込めてめ建立したのが、この像である。
幸矢の与一像から程なく左手に、日蓮宗の本朝山正法寺がある。
初代大田原藩主・大田原晴清の夫人は熱心な法華の信者であり、この地に法華の道場がないのを嘆き、正法院日春上人を招いて、慶長9年(1604)に正法寺を創建したと伝えられている。
境内には稲荷神社・天満宮のほか、南無妙法蓮華経題目碑などがある。
街道に戻ると直ぐ先の信号交差点左角に、金燈籠ポケット公園があり、中央に金燈籠が建っている。
文政2年(1819)に鋳造された燈籠は、戦時中に供出され、現在のものは昭和54年(1979)に鋳造されたものである。台座は往時のもので、「江戸」 「白河」 と刻まれ、塩原道との追分道標であった。
金燈籠前の交差点を左折すると、左手に江戸時代創業の和泉屋醤油店があり、大きな蔵が建っている。
この手前には明治時代に建てられた蔵を利用した商店もある。

旧奥州道中碑 枡形道 龍泉寺 光真寺
街道に戻って金燈籠前の交差点の次の交差点を左折すると、右手のビジネスホテルみつやの手前に 「奥州道中大田原宿寺町」 碑が建っている。
ビジネスホテルみつやは、旧旅籠上州屋跡であり、街道は、ここを右折して行く。
先に進むと左に折れて、直ぐ右に折れる枡形道がある。
枡形道を抜けると、正面には大田原神社の森が見えている。
枡形道を抜けて100mほど進むと、左手に真言宗智山派の龍頭山龍泉寺がある。
龍泉寺は、那須国狩野庄福原郷に草庵を建立したのが始まりと言われる。その後、二度ほど移転をし、明治41年(1908)の火災後、この地に移転した。有形文化財として涅槃図・愛染明王図・大田原資清の肖像画などを所蔵し、境内には宝篋印塔・十九夜塔・二十六夜塔などの石造物がある。
龍泉寺前を西に150mほど進むと、右手に曹洞宗の大田山光真寺がある。
光真寺は、大田原家中興の祖である13代大田原資清(初代大田原城主)が、両親の菩提を弔うため創建したものである。寺号は父母の法号を一字ずつとって光真寺とした。境内は裏山の霊園を含めるとかなり広く、開山堂・豊川稲荷神社・大黒天堂・地蔵堂のほか、歴代城主の墓・三十三観音などがある。

鱗屋商店 大田原神社 大久保木戸跡 大田原城跡
街道に戻って進むと、左手に大正8年(1919)創業の鱗屋商店がある。
鱗屋商店は、正月、三月節句、五月節句、盆提灯などの季節物や振袖・羽織・袴などを扱っている。
先に進むと左手の高台に大田原神社がある。大田原神社は、大同2年(807)の創建で、大田原藩祖大田原備前守資清が大田原城築営に当たり、城郭内に祠を建て、二神を奉斎し崇敬した。その後、庶民の参拝の便を図り、金田村中原の中宮に、中田原温泉大明神と称して奉還し、更にこの地に移し、温泉神社を改めて大田原神社とした。境内には延享4年(1747)の手水石や常夜燈のほか、稲荷神社・三峯神社などの境内社がある。 街道に戻ると直ぐ先で国道461号線に突き当たり、街道は左折して行くが、この左角に 「旧奥州道中大田原宿大久保木戸跡」 標柱が建っている。
ここは大田原宿の白河口(北口)跡である。
大久保木戸跡の国道461号線を挟んだ向かいの丘は大田原城跡である。
大田原城跡へは、大久保木戸跡から大田原神社への車道を少し上がって、国道461号線に架かる龍体遊歩道橋を渡って行くことが出来る。
関ヶ原合戦の時の戦功により5000石加増されて大田原藩が立藩され、以来、明治維新まで大田原氏が居城した。現在、龍城公園として整備され、土塁には桜やツツジが植えられている。

蛇尾(さび)橋 彫刻 富士電機工場 瀬尾家館跡
街道に戻ると蛇尾川(さびかわ)に架かる蛇尾橋がある。蛇尾川は、那須塩原市の大佐飛山地を源とする大蛇尾川と日留賀岳を源とする小蛇尾川が塩原付近で合流して蛇尾川となるが、この先は10㎞以上水無川(伏流水)となり、大田原市で再び地表に現れている。
蛇尾(さび)という名前は、アイヌ語の 「サッ・ピ・ナイ」 (渇いた小石河原の川) に由来する説と、栃木県の方言 「サビ」 =斎日(さび)に由来する説がある。
蛇尾橋渡詰めの河原交差点を左折して進み、大きく右にカーブした先の中田原工業団地交差点の左手に中田原工業団地東公園があり、園内にいくつか彫刻が建っている。
この白い彫刻は、「希望」 といタイトルで、希望をリボンになぞらえ空に向かって躍動しながら伸びていく形を表したものとのこと。
中田原工業団地交差点を渡ると、左手に昭和48年(1973)に設立された富士電機㈱大田原工場がある。
ここは富士電機グループのブレーカ生産拠点として重要な役割を担っている。
富士電機工場を過ぎると緩い上り坂となり、左手の瀬尾家の塀際に 「平家瀬尾家居宅館跡」 碑と 「東山道」 碑が建っており、瀬尾家の門柱脇には曽良句碑 「かさねとは やえなでしこの ななるべし」 がある。

与一味噌 二本松橋 中田原の一里塚跡 直線の街道
先に進むと左手に元治元年(1859)創業の与一味噌の看板を掲げた岩上商店がある。
向かいの駐車場には、上に味噌樽が乗り 「与一みそ那須の風味」 と記された看板が建っている。
先に進むと巻川に架かる二本松橋がある。
巻川は、那須塩原市木曽畑中地内に源を発し、大田原市内の水田地帯を流れ、下流で箒川に合流している。
ここ中田原地内で頻発した浸水被害を解消するため、堀削・築堤・護岸等が行われ、平成20年3月に河川事業が完了した。
二本松橋を渡ると直ぐ先のセブンイレブンの前に、中田原の一里塚跡がある。
当初は道の両側にあったが、南側は宅地建設のため取り壊され、北側は半分切り取られた形で残っていたが、道路拡幅のため平成12年に約1.5m後方に移設された。
ここは江戸日本橋から数えて38里目の一里塚跡である。
中田原の一里塚跡を過ぎると、平坦な直線の街道が北北東に向って延びている。

棚倉道追分 十王堂跡 高野槙 如意輪観音
暫く進むと市野沢小入口交差点のY字路がある。右手の道は棚倉道で岩城国棚倉(現福島県東白川郡棚倉町)へ至る。
この分岐点には、元禄4年(1691)の道標があり、正面に 「左奥州道」、右面に 「右たなくら道」、左面に 「南無阿弥陀仏」 と刻まれている。このほか大典記念の道標・石塔・聖徳太子碑などがある。
棚倉道追分のY字路左手に十王堂跡がある。十王堂は、冥府で亡者の罪過を判定する閻魔大王を筆頭とする十人の判官を祀ったものである。
境内跡には六地蔵尊をはじめ、六地蔵幢、文久2年(1862)の十九夜塔、享保14年(1729)の如意輪観音などがある。
先に進んで市野沢交差点を越えると、左手に高野槙が聳えている。
小滝のコウヤマキと呼ばれ、目通り3.1m、樹高17m、推定樹齢400年の 「与一の里おおたわら名木」 (市指定天然記念物) である。
高野槙を過ぎて200mほど進んだ逆Y字路の中央に風化の進んだ如意輪観音が建っている。
この辺りは 「首切り山」 と呼ばれ、刑場跡だったとも言われている。

弘法大師句碑 高野橋 麻疹地蔵堂 ラーメンらいと
先に進むと右手の市野沢ほほえみセンターの前に、弘法大師の碑 「蓑に沿う 市野沢辺の ほたる哉」 がある。
この句は、平安時代の高僧の弘法大師が、この地を通った際に詠んだものだと伝えられているが、実際は江戸時代に詠まれたものらしい。ここで遂に雨が降ってきたが、今のところ傘をさして進むことが出来る。
弘法大師句碑から200mほど進むと、那珂川支流の相の川に架かる高野橋がある。
晴れていれば、上流に那須連山が見えるという。
高野橋を渡りしばらく進むと、左手段上に麻疹地蔵堂がある。
ここは真言宗宝積院跡であり、昔、この地域で麻疹が流行し多くの幼児が亡くなったことを哀れんで地蔵尊を祀ったという。
地蔵堂の中は見ることが出来ないが、境内には馬頭観音・十九夜塔・六地蔵幢・宝篋印塔などがある。
麻疹地蔵堂から程なく右手にラーメンらいとがある。雨が一段と強くなってきたところで昼時となったので立ち寄り、暫し休憩した。
奥様の話では奥州街道を歩く旅人が、たまに立ち寄るといい、記念に娘さんが作ったストラップを戴いた。

馬頭観音 道標 練貫交差点
昼食を済ませ街道に戻ると、直ぐ左手に大正4年(1915)の馬頭観音が建っている。
裏面には 「為青號」 と刻まれている。
馬頭観音から300mほど先の練貫交差点の手前右手に道標が建っている。
道標には 「←羽田沼3.2㎞ ・ コウヤマキ2.0㎞→」 と記されている。
昼を少し過ぎたばかりなのに薄暗くなり、更に雨と風が強くなってきたので、暫し、地図を確認すると練貫交差点から4㎞先に那須塩原駅があるので、今回はここで終了することとした。

前へ   氏家~佐久山 次へ   大田原~芦野