地蔵堂

聖徳太子像 ・ 矢除地蔵尊

御堂に掛かる矢除地蔵尊の扁額

 地蔵町勝満寺の門前に地蔵堂がある。この地蔵堂には地蔵菩薩と聖徳太子が祀られてあり、通称矢除地蔵尊と呼ばれ親しまれている。もとは旧中山道の松の畷手にあったものを現在地に移されたものである。以後、松の畷手を地蔵畷手と呼ぶようになり、以来、現在の集落を地蔵村と呼ぶようになったものと考えられている。
 この地蔵さんは、西暦570年頃、30代敏達天皇の御代に仏教が伝来した当時疫病が流行した。これは仏教の信仰によるものであるとして、それに反対する物部守屋と争われた聖徳太子が守屋からの難を避けて、この地方に隠れておられたことがあると言われ、今もこの付近には聖徳太子にちなんだ伝説や地名がいくつか残されている。聖徳太子を追ってきた守屋の軍勢が、この松の畷手で太子一行を発見し、矢を射かけたところ、突如金色の地蔵菩薩が現れ、全身に朝日を浴び立たれた。後になって松の根方に小さな地蔵さんがその右肩に矢が射こまれ、血の流れた跡があった。世人はこれを尊び、一宇の堂を建て、往来の安全を願ったと言われいる。本堂正面には功徳日が納められ額が掲げられ、縁日には近在の信者がたくさん参詣したと言われている。昭和55年春地蔵堂修理のため町内寄進を願ったところ、予定以上の金額が寄せられ内部の大修理も行なった。「宮田思洋著、 明治44年頃に堂宇いたく損じ、破水菩薩に対し奉り、余りに勿体なき有様に候ため篤志の寄進いただき云々」 とあり、今回の修理はそれ以来70年目大修理であった。古文書によると 「聖徳太子,守屋との合戦のとき太子は石を集めて小立として戦しに、守屋の軍この石を敵とみて大石を投げかけて引き揚げた。夜明けてみれば一夜のうちに地蔵菩薩尊像現われ当所の尊厳なり」 と書かれている。

地蔵堂前の地蔵尊

地蔵堂前の地蔵尊

矢除地蔵尊由緒