高宮の地は、中世に荘園が成立し、東山道筋には市も立っていました。当時、高宮を領した高宮氏には2系統がありました。鎌倉時代末に地頭として入部した紀州櫟(いちい)氏を祖とする高宮氏と、江南の六角氏頼(うじより)の3男信高を祖とする高宮氏です。前者を北殿の高宮氏、後者を南殿の高宮氏とも称しました。南殿の信高が当地に入ると、北殿の高宮氏はしだいに衰退します。この高宮氏が代々居城としたのが高宮城です。高宮城は平地城館で、現在の高宮小学校や高宮幼稚園一帯に広がっていたと考えられます。
 高宮氏は、出自の関係もあって当初は六角氏と行動を共にしたようですが、やがて京極氏、次いで浅井氏に加担するようになり、天正元年(1573)の織田信長による小谷城攻めでは、浅井氏と命運を共にすることになりました。高宮宗光は小谷城で戦死。その子宗久は小谷城を脱出して高宮城に帰り、城に火を放って一族離散したと伝えられています。
 (彦根市教育委員会)

近年まで高宮小学校の運動場に残っていた高宮城ゆかりと伝える井戸

高宮城跡説明

高宮城跡碑