メニュー
前へ  醒井~高宮 次へ   愛知川~近江八幡

中山道   (高宮~愛知川)


平成27年10月31日(土) ☀  高宮~愛知川  11.2㎞
前日の宿泊地南彦根駅前から南下して太田川に架かる日の出橋を渡って湖岸道路を進み無賃橋北詰に出るまでは約25分の道程である。早朝のためか、土曜日ということもあってか道路を往来する車の数は昨日と比べるとかなり少ない。本日の設定は11.2㎞だが、寺社仏閣などの寄り道を考慮すると18㎞程になる。。

太田川 高宮橋(むちん橋) 法士一里塚跡 地蔵堂
太田川に架かる日の出橋から東の空を見ると曇り空が明るくなって日の出を迎えたようである。 天保2年(1832)彦根藩は増水時の 「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の豪商である藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに費用を広く一般の人々から募らせ、橋を架けることを命じた。
当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃を取らなかったことから 「むちんばし」 と呼ばれた。渡り詰めには天保3年(1833)の無賃橋標柱と牛頭天王道道標が建っている。
街道を進んで四の井川に架かる新安田橋を渡ると法士町(ほうぜちょう)に入り、左手角に法士一里塚跡がある。
一里塚碑は車が突っ込んだのか土台から折れていた。ここは江戸日本橋から数えて120里目の一里塚である。
法士町自治会館の裏に地蔵堂がある。
地蔵堂の扉は閉まっていて地蔵尊は確認できないが、御堂の横に自然石の地蔵尊が安置されており、地蔵堂の隣には八幡神社がある。

松並木 月通寺 茅葺屋根の家 若宮八幡宮「産の宮」
法士町交差点を越えて進んで行くと左手に小さな地蔵堂があり、その先で葛籠町に入ると植えて間もない松並木がある。 松並木を過ぎると右手に真言宗豊山派の延命山月通寺がある。
別名 「柏原地蔵」 とも呼ばれており、本堂中央には行基の彫造と伝えられる地蔵菩薩が安置されている。山門前には 「不許酒肉五辛入門内」 と刻まれた石標があり、延命山地福寺といわれ、禅宗であった頃の名残を伝えている。山門は左右に本柱と控柱を一組ずつ配し、屋根は切妻破風造りとなっている薬師門と呼ばれる門の一種である。
月通寺山門の斜向かいに茅葺屋根の家があり、その先街道両側に向かい合って三角屋根の民家がある。 三角屋根の民家の先に 「産の宮」 参道があり、入口の覆屋の中に 「足利氏降誕之霊地」 と刻まれた文政元年(1818)の手水石と井戸がある。道を進むと竹林に囲まれたに覆屋の中に八幡宮と刻まれた石塔が建っている。
南北朝の争乱の頃、足利尊氏の子義詮が文和4年(1355)後光厳天皇を奉して西江州に戦い、湖北を経て大垣を平定し、翌5年京都に帰ることになった。その時、義詮妻妾が途中産気づき、ここで男子を出産したが亡くなり菩提を弔ったという。

了法寺 環相寺 堂の川地蔵尊 鹿嶋神社
変則十字路の右手に浄土宗の摂取山了法寺がある。
境内には法然上人像や中央に三界萬霊塔を置いた無縁墓・地蔵尊・道祖神などを安置した一角がある。
了法寺の向かいに真宗大谷派の甑谷山環相寺がある。 街道右手の高崎医院の脇に堂の川地蔵尊がある。
御堂内にはかなり古そうな地蔵尊が安置され、堂脇に自然石の地蔵尊が安置されている。
堂の川地蔵尊の先左手の路地を入ると鹿島神社がある。
明治期に甲良神社に合祀されたが、昭和40年(1965)現在地に遷座された。祭神はは建御雷之神である。

御堂 金光寺 鹿島神社跡 家並み
鹿島神社の先を少し進むと葛籠町公民館があり、庭先に御堂がある。
御堂の中には厨子があるが、閉じられているため何が安置されているか不明である。
葛籠町公民館を左に進んだ環相寺の裏辺りにj浄土真宗本願寺派の紫雲山金光寺がある。境内には親鸞聖人像と蓮如聖人像がある。 金光寺の向かいの倉庫前に鹿島神社跡標柱が建っている。
中世の頃、常陸国(茨城県)一の宮鹿島神宮より勧請されたもので、創祀年代は不詳だが、葛籠町の氏神様として建御雷之神を奉っていた。境内には樹齢500年を経た欅やイチョウの古木がそびえていた。明治42年(1909)当時の国家政策により甲良神社に合祀され、昭和40年(1965)西葛籠町の鹿島八幡宮と合祀され、現在の鹿島神社に遷座された。
街道に戻って堂の川地蔵尊の先を進むと左手に黒板塀の家が並んでいる。

松並木 出町 地蔵堂 日枝神社
家並みが途切れたところから松並木となり、街道左手に彦根市のモニュメンの石柱が3本建っている。
石柱の上には近江商人・菅笠を被った旅人・麻の荷を担いだ女性の像が乗っている。彦根市から出る側には 「またおいでやす」・入る側には 「おいでやす彦根市」 と刻まれている。
松並木からケヤキが混ざったところに葛籠町標柱があり、その先の出町交差点角に出町標柱が建っている。
ここから旧尼子出村に入り、この辺りから街道左側は犬神郡甲良町尼子、右側は彦根市出町と地形が入り組んでいる。
出町交差点を渡って直ぐ右手に陸軍歩兵伍長ほか一基の大きな碑があり、その先左手に忘れ去られたような小さな地蔵堂がある。 地蔵堂の先左手に日枝神社がある。旧尼子出村の鎮守であり、鳥居の奥に小さな社殿が建っている。

地蔵堂 ケヤキ並木 阿自岐神社社標 豊穣安食の郷碑
日枝神社の向かいの公園の一角に地蔵堂がある。比較的大きな地蔵堂だが、中には地蔵堂脇の自然石の地蔵尊と同じものが1体安置されているだけである。
この公園の奥に清霞園と刻まれた碑があり詳細は不明だが、かつてこの地に住んでいた方が子供たちのためにこの地を提供したようである。
公園の先はケヤキ並木となり、並木の一角に東屋を置いた小公園があり、池の中に何を表しているのか不明な三角に積まれた石組が建っている。 街道を進んで行くと四十九院交差点の右手に阿自岐神社社標があり、傍らに常夜燈・道標 「従是本社六丁」 がある。
ここから800mほど進んだところに阿自岐神社がある。
阿自岐神社社標の先を進んで行くと右手に阿自岐神社御旅所があり、その先阿自岐神社の手前左手の数本の木の前に豊穣安食の郷碑が建っている。
安食西地区は、湧水の地として知られた自然に恵まれた土地柄であり、これを継承していくため土地改良事業を行い、平成5年に完成させたことを記念して建てられたものである。

阿自岐氏像 阿自岐神社 唯念寺 恵林寺
阿自岐神社参道の石灯籠の間に渡来人阿自岐氏像がある。
安食西村は、豊穣安食の郷碑にもあったように、応神天皇15年(西暦285)、渡来人阿自岐氏によって拓かれた由緒ある土地である。
阿自岐神社は、醍醐天皇延長5年に撰選された延喜式神名帳所載の神社(式内)で、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)を主祭神として祀っている。
総面積16,162㎡の神苑内には、奈良時代に築かれた日本最古(1500年前)の名園と云われている阿自岐庭園がある。池中にショウズと呼ばれる湧水があり、これが農業用水池として利用されてきた。
四十九院交差点まで戻って街道を進むと左手の四十九院公民館の裏手に唯念寺がある。
僧行基が四十九院を創建したのは、奈良時代後期天平3年(731年)である。行基は当時すでに四十八の寺院を建て、次いで四十九番目にこの寺を建てた。
この寺で最も古い建物は書院の 「芙蓉閣」で、芙蓉の名は、建立された当時に天皇から授かったと伝わっている。
唯念寺の向かいに真宗大谷派の瑞光山恵林寺がある。

春日神社 やりこの郷 一里塚の郷 八幡神社
恵林寺から街道に戻って進むと左手に春日神社の常夜燈と鳥居が建っている。鳥居の先を進むと左手に春日神社がある。
春日神社は、天平3年(731)僧行基が四十九院建立の時、伽藍鎮護の神として祭神を院内庭園に勧請したのが始まりで、文和3年(1354)後光源天皇の行在所であった時 「春日大明神」 の宸翰(天皇の御直筆)を賜った。その後、永正元年(1504)現在の地に遷座された。
豊郷町立小学校の向かいに 「やりこの郷」 碑が建っている。
安食南には古くから 「矢り木」 という地名があり、昔、幾日も雨が降らず村人が困って阿自岐神社の神様に祈ったところ、安食南にある大木の上から矢を放ち、矢の落ちたところから水が湧くとお告げがあり、その通り矢を放ったところ、矢は阿自岐神社の東の地面に刺さり、矢を抜くと清水が湧きだし大地を潤したという
やりこの郷碑の先左手にある八幡神社の脇に一里塚の郷碑がある。
ここには小さな一里塚が復元されており、ここ石畑は高宮宿と愛知川宿の間の宿として発展し、立場茶屋が設けられ旅人や馬の休息の場として栄えた。当時の一里塚はここより先の役場前交差点南に設けられており、江戸日本橋から数えて121里目の一里塚である。
石畑は文治元年(1185)源平の戦いの屋島の合戦で弓矢の名手として名を馳せた那須与一宗高の次男石畠民武大輔宗信が、この辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として那須城を造り、この地を治めていた。宗信は後に仏門に入った。
この八幡神社は延応元年(1239)京都石清水八幡宮から勧請したものである。

称名寺 豊郷町役場 犬上の君御館跡 犬上神社
八幡神社の奥に浄土真宗本願寺派の弘誓山称名寺がある。
称名寺は正嘉2年(1258)の創建で、那須与一の次男石畠民武大輔宗信が開祖である。
街道に戻ると左手に豊郷町役場があり、庭先に町民憲章碑が建っている。
入口脇には 「恒久平和宣言の町」 碑を掲げている。
豊郷町役場前交差点を越えると左手の民家の塀に豊郷駅前公園の標識があり、脇の細道を入って行くと林の前に犬上の君遺跡公園碑が建っている。碑の向かいは墓地になっている
犬上君は滋賀県犬上郡にゆかりのある豪族である。犬上君御田鍬が遣隋使や遣唐使を歴任、犬上君白麻呂が高句麗に派遣されるなど、対外交渉の分野で活躍した。
街道に戻ると丸正呉服店の角を左に入ったところに稲依別王を祀っている犬上君ゆかりの犬上神社がある。

伊藤忠兵衛翁碑 伊藤長兵衛家屋敷跡 地蔵堂 佛願寺
街道に戻った左手の 「久れない園」 の標柱の建つ公園の中央に伊藤忠兵衛翁碑がある
この公園は、丸紅関係者で結成した酬徳会が初代の功績を偲んで昭和10年(1935)に築造したものである。
くれない園の隣の豊郷病院駐車場に伊藤長兵衛家屋敷跡碑が建っている。
伊藤長兵衛は若林又三郎の三男として生まれ、幼名は長次郎といい、16歳で伊藤長兵衛商店に入り、22歳のとき6代目伊藤長兵衛の養子となり、明治5年(1892)その子女やすと結婚し、翌年9代目伊藤長兵衛を襲名した。
大正10年(1921)伊藤忠商店と合併し丸紅商店を設立し、初代社長に就いた。
直ぐ先の右手の路地を入って行くと真宗大谷派の光照山福等寺の前に地蔵堂がある。
福等寺は門を閉ざして中に入ることができないが、この地蔵堂には吊るし雛が飾られ、中央に地蔵尊が安置されている。
街道に戻ると左手に伊藤忠兵衛旧邸があり、その手前の路地を左に入ると浄土真宗本願寺派の鶏足山佛願寺がある。

伊藤忠兵衛旧邸 天稚彦神社 西澤藤平商店 金田池
高野瀬東交差点手前の左の一角に伊藤忠兵衛旧邸がある。
伊藤忠商事・丸紅の創始者伊藤忠兵衛の100回忌を記念して初代忠兵衛が暮らし、二代目忠兵衛が生まれた豊郷本家を整備し、伊藤忠兵衛記念館と命名して一般公開されている
高野瀬東交差点を過ぎると右手に天稚彦神社の大きな社標があり、社標を右に入って行くと突当りに天稚彦神社がある。
第49代光仁天皇天応元年(781)の創立で、戦国時代この地の支配者であった高野瀬備前守その子備中守共に信仰が厚く、社頭も隆盛を極め、この地を通る殆どの武将は天稚大明神に神饌を供し勝運を祈願したという。
天稚彦神社社標の隣に蔵元・造り酒屋の西沢藤平商店がある。
清酒は江州音頭発祥地ににちなんだ江州音頭、豊郷小学校有形文化財登録にちなんだ豊郷、そして出世誉がある。
西沢藤平商店の先右手のニシキ会館の前に金田池のモニュメントがある。
この地より北約50mのところに金田池と呼ばれる湧水があり、田の用水や中山道を旅する人たちの喉を潤してきたが、地殻変化により出水しなくなり埋め立てられた。これを再現して造られたのが、この井戸のモニュメントである。傍らには西沢新平家邸跡碑があり、ニシキ会館の脇には地蔵堂と感恩之碑が建っている。

小公園 又十屋敷 西還寺 千樹寺
金田池の少し先に東屋のある小さな公園があり、東屋の隣の水槽らしき円柱に江州音頭の絵が描かれている。 街道を進むとJA東びわこの建物の先に又十屋敷がある。江戸時代幕末の頃、一人の青年がここを出て北海道に渡り、呉服店の見習いから、柏屋という屋号と又十の商標の呉服屋を創って独立し、そのかたわら漁場を開いて廻船業まで経営した。青年の名前は藤野喜兵衛といい偉大な近江商人の一人である。又十屋敷は喜兵衛の本宅であり、現在は歴史資料館「豊会館」 として開放されている。 又十屋敷の斜向かいに浄土真宗本願寺派の西還寺がある。
大永3年(1523)西念が開祖と伝わり、阿弥陀如来がご本尊である。
西還寺の先右手に臨済宗永源寺派の千樹寺がある。千樹寺は一般に観音堂と呼ばれ、この寺も唯念寺と同じく行基が創建したもので四十九院の一つである。戦国になると織田信長の兵火に会いこの寺も焼失したが、本能寺の変で信長亡き後近江商人となった藤野喜兵衛の先祖、太郎右ェ門が寄金して再建した。この落慶法要で時の住職がお経に音頭の節をつけて唱い踊りだし、見物人も面白くなって踊り出したのが 「江州音頭」 の始まりである。

歌詰橋 普門寺 順性寺 地蔵堂
街道を進んで行くと宇曽川に架かる歌詰橋がある。歌詰橋はその昔、十数本の長い丸太棒を土台にしてその上に土を塗り込めた土橋であった。天慶3年(940)平将門は、藤原秀郷によって東国で殺され首級を挙げられたが、秀郷が京に上るために、この橋まで来た時に目を開いた将門の首が追いかけてきたため、その首に対して一首と言うと、将門の首はその歌詰まり、橋上に落ちたという。渡り詰めには歌詰橋標柱と歌詰花壇がある。 歌詰橋を渡ると左手に浄土真宗本願寺派の将門山普門寺がある。
山門は閉ざされていて境内には入れなかったが、塀の隙間から本堂を望むことができた。
普門寺の先右手に真宗大谷派の歌詰山順性寺がある。 街道左手の愛荘町石橋消防器具庫の隣に地蔵堂がある。
地蔵堂の中は更に扉があり、閉じられていて中は確認できないが、石段脇には自然石の地蔵尊が安置されてる。

正光寺 石部神社 道標 専光寺
続いて街道左手に浄土真宗本願寺派の甘露山正光寺がある。 街道左手のエスジーエスエンジニアリング㈱の隣に大きな鳥居が建っている。鳥居を潜って石灯籠の並ぶ参道を進むと左手に石部神社社殿がある。
石部神社は延喜5年(905)に醍醐天皇の命により編纂された 「延喜式」 にその名が見られる。社伝には神護景雲元年(767)石部公行冨の創祀と記され、久斯比賀多命が祭神に含まれることから 「石部」 や 「石辺君」 などの古代氏族と関係が深い神社と言われる。
沓掛交差点を過ぎるとY字路となり、中央に旗神豊満大社の道標が建っている。
右が中山道で、左に進むと近江鉄道本線愛知川駅の南に旗神豊満神社がある。
Y字路の手前右手の民家の奥に浄土真宗本願寺派の菩提樹山専光寺がある。

勝光寺 井上神社 河脇神社 地蔵堂
旗神豊満大社道標のY字路を左に少し入ったところに真宗大谷派の薬王山勝光寺がある。勝光寺の山門脇には地蔵堂があり、中には小さな御堂が安置されているが、中の金色の地蔵尊は拝顔できなかった。 沓掛から中宿の間を流れる小川沿いを左に入ると井上神社がある。
創祀年代は不明であるが、主祭神は菅原道真公、配祭神は伊邪那美命である。
街道に戻って中宿を進むと右手に河脇神社の大きな鳥居が建っている。
参道脇には自然石の地蔵尊や小社などがあり、手水舎と拝殿は最近改修されたようで真新しい。
信号交差点のところに愛知川宿ゲートがあり、その先左手に地蔵堂が南を向いて建っている。
御堂の脇には自然石の地蔵尊があり、御堂の中には金色の厨子に地蔵尊が安置されている。

延寿寺 蓮泉禅寺 旧田中新左衛門宅 郡分延命地蔵尊
地蔵堂の脇を左に入ると浄土真宗本願寺派の放光山延寿寺がある。 地蔵堂の向かいの路地を右に入って行くと曹洞宗の蓮泉禅寺がある。
山門をくぐると左手に地蔵堂があり、地蔵堂脇に水子地蔵尊が建っている。堂内には琵琶湖から現れたという亀に乗った観音像や木造の十六羅漢像が安置されている。
蓮泉寺を出ると直ぐ左手に麻織物商を営んでいた近江商人の旧田中新左衛門宅がある。
現在は、平成6年に開業した料亭 「近江商人亭」 として使用されており、建物は文化庁登録有形文化財となっている。近江商人といえば豪商を数多く産出しており、代表的なものは八幡商人、高島商人、日野商人、湖東商人があるが、これらの多くは江戸時代に発展したのに対し、愛知川の商人は明治以降の 「近代」 にピークを迎えている.。
近江商人亭を過ぎると街道を横切る中の橋川の脇に地蔵堂があり、御堂の脇に自然石の地蔵尊がたくさん安置されている。
地蔵堂の中はガラス戸があり、その奥に内陣が有るため郡分延命地蔵尊は確認できなかった。ここは郡と郡の境で愛知川宿北入口である。

しろ平老舗 お休み処 ポケットパーク 旧愛知郡役所
郡分延命地蔵尊の隣に慶応元年(1865)創業の近江路銘菓のしろ平老舗がある。
店のガラスには商品名の 「黄金芋」・「米どころ」・「湖東三山」・「びん細工てまり」 などが貼られている。
しろ平老舗の直ぐ先に愛知川宿のお休み処があり街道案内をしている。
入口から女性が声を掛けてきたので中に入って御茶を一杯ご馳走になった。
お休み処の先には信号交差点があり、交差点を渡った左角にポケットパークがある。
ここには愛知川宿道標 「左高宮宿二里 右武佐宿二里」、広重画レリーフ、むちん橋画、明治時代の書状集箱がある。
ここを左に進んで行くと旗神豊満神社がある。
信号交差点を左に曲がり豊満神社へ向かう途中に旧愛知郡役所がある。
愛知川に残る旧郡役所の建物で大正11年(1922)に建築され、間もなく郡役所は廃止された。その後、町村会や農協が使用していたが、現在は愛荘町文化振興課が管理し、町史編さん事業などで収集した歴史資料や民具などの保管に使用している。

旗神豊満神社 宝満寺 等覚寺 本陣跡
旧愛知郡役所から約1㎞程進むと左手に旗神豊満神社がある。
豊満神社は、古くより軍旗の守護神として崇敬され、祭神は大国主命・足仲彦命・息長足姫命・誉田別命の四神を祀っている。
鳥居脇には伝説の竹林があり、参道正面の四脚門は鎌倉時代に建てられたもので重要文化財に指定されている。境内には八大龍王社・樹下神社の摂社があり、奥の林には御神木の女神の木・夫婦コブシの木がある
街道に戻ってポケットパークの先を進むと右手に浄土真宗大谷派の負別山宝満寺がある
寺伝によると宝亀年間(770-781)に僧知徳が大日如来を本尊として、豊満神社の東方に創建したが、延暦5年(786)に秦豊満が再建し、豊満神社の別当寺として豊満寺と改めた。
その後、建暦2年(1212)親鸞上人が入寺して、住持慈全を弟子とし真宗に転じ、応安5年(1372)宝満寺と改めたという。境内には親鸞聖人御手植えの梅ががある。
宝満寺境内脇に門徒によって建てられた小院(塔頭)の等覚寺がある。
門内には木造の仏像が安置された小堂があり、向かいの愛知保育園の遊具脇には地蔵堂がある。
宝満寺参道の隣の日本生命ビルの前に本陣跡の標柱が建っている。

八幡神社 脇本陣跡 問屋跡 漬物の老舗マルマタ
本陣跡の隣に八幡神社がある。
八幡神社は、隣接する現在の宝満寺の位置に城館を構えていた愛智氏によって武運守護の神として勧進されたと伝えられている。
八幡神社本殿は、寛文11年(1671)大坂の大工八右衛門によって建立されたと言われ、街道に面した左の常夜燈脇に高札場跡碑が建っている。
八幡神社常夜燈の脇の紅塗りの旧家の隣の鉄柵の辺りが脇本陣跡である。遺構は何も残っていない。 街道右手のタカダ時計店の向かいに問屋跡標柱が建っている。 問屋跡標柱の先左手に近江漬物の老舗マルマタがある。
店先には創業文政11年(1828)株式会社マルマタの大きな看板が下がっている。

大日堂 堀川地蔵堂 竹平楼 不飲川橋
漬物の老舗マルマタの脇の細道を左に入って行くと突当りに大日堂がある。
御堂内には金色の大日如来坐像が安置されている。御堂の左手には春日神社がある。
街道に戻って進むとY字路左手に旅館味吉屋があり、味吉屋の前を左に進んで行くと堀川地蔵堂がある。
堂内には陽刻の地蔵尊が安置され、堂脇には石塔などの石造物が沢山安置されている。
旅館味吉屋と路地を挟んだ向かいに割烹旅館竹平楼がある。
竹平楼は宝暦8年(1758)の創業で、江戸時代から続く老舗の料理旅館である。初代平八が 「竹の子屋」 の屋号で旅籠を営んだことに始まり、明治11年(1878)明治天皇が北陸東山道ご巡幸の際、休憩している。その時に侍従長の岩倉具視をはじめ大隈重信、井上馨、山岡鉄舟などの重鎮も随行している。
竹平楼の先で不飲川に架かる不飲川橋を渡って行く。
川の由来は、平将門の首をこの川の上流の池で洗ったため、川の水が血で濁ったことから、不飲川と呼ぶようになったという。不飲川を渡ると中山道愛知川宿のゲートがあり、この辺りが愛知川宿の西口である。

一里塚跡 旅館味吉屋
中山道愛知川宿ゲートの先で国道8号線に合流すると右手の駐車場奥に一里塚跡標柱が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて122里目の一里塚である。本日はここで終了し、旅館味吉屋に宿泊する
本日宿泊する旅館味吉屋である。

前へ  醒ヶ井~高宮 次へ   愛知川~近江八幡