鎌刃城主・土肥三郎元頼の墓と伝えられています。元頼は、正応元年(1288)9月18日逝去して、蓮華寺の墳墓に葬られました。宝篋印塔には銘文等が確認できず、塔の様式から元頼の年代と比べて新しいものである可能性もあります。蓮華寺は、聖徳太子が創建し法隆寺と称していましたが、建治2年(1276)落雷により焼失。その後、弘安7年(1284)の夏に、一向上人が諸国を巡る旅の杖を留めて、この地で念仏を広く唱えて民衆を教え導かれました。この地の領主であった元頼も深くその教えに従い、焼失した堂塔を再興して、「八葉山蓮華寺」 と改称し、一向上人を開山上人に迎えました。

伝土肥元頼墓(市指定石造宝篋印塔)説明

 聖徳太子によって開かれた寺と伝えられ、当初は寺号を法隆寺と称していました。歴代天皇の信仰も厚く、花園天皇(1308-18)寺紋として菊の紋を下されました。
 昭和17年に浄土宗鎮西派に帰属して、浄土宗本山として現在に至ります。書院の東南に広がる庭園は、釈迦嶽の山裾にあたる池庭で、背景に山が迫り、谷が深く幽園です。コウヤマキの巨樹や、山腹にはミツバツツジが群生して春の色どりは格別です。
 元弘3年(1333)、京都の合戦に敗れた六波羅探題北条仲時は、この地で京極道誉南朝軍の包囲に遭い、本堂前庭で仲時以下430余名が自刃しました。仲時一行の供養の墓碑が境内にあります。また斎藤茂吉は、恩師佐原隆応が当寺49世住職になったことから、参詣して短歌を残しています。

史跡北条仲時公・従士430余名の墓説明

 元弘3年(1333)5月9日、京都での合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の天子光厳天皇・後伏見・花園二上皇を奉じて中山道を関東に向って番場の宿に着いた時、南朝軍の重囲に陥り止む無く玉輦を蓮華寺に移し大いに戦いたるも衆寡敵せず敗退し、遂に本堂前庭に於いて仲時公以下従士430余名悉く自刃す。
 時の住職三代同阿上人は、深く哀燐され、その姓名と年齢・法名を一巻の過去帳に留め、更に一々その墓を建て丁重に弔う。過去帳は重要文化財に指定され宝物館に収蔵され、墓は境内にある。
 (米原町教育委員会)

蓮華寺由緒

鎌刃城主・土肥元頼公墓(宝篋印塔)

地蔵堂の身代わり地蔵尊

地蔵堂

 足利尊氏に攻められた六波羅探題北条仲時は鎌倉へと逃げるため番場宿まで来たが、佐々木京極道誉らに行く手を阻まれ奮戦むなしく、元弘3年(1333)5月9日この寺で自刃した。
 憐憫の情を誘われた当時の僧侶同阿はこれを丁重に葬り、法名を授けその姓名を陸波羅南北過去帳で蓮華寺過去帳として書き残したが、これが現在重要文化財としてこの寺に伝わっている。

境内在故六波羅鎮将北条仲時及諸将士墳墓標柱

南北朝の古戦場 蓮華寺標柱

松風のおと聴く時はいにしえの 聖のごとく我は寂しむ

このみ寺に 仲時の軍やぶれ来て 腹きりたりと聞けばかなしも

東伏見宮殿下お手植の松

斎藤茂吉歌碑

北条仲時及従兵四百余人紀念碑

太平洋戦争英霊供養塔

後水尾天皇宸筆の勅額で元禄5年(1692)御下賜

インドの香木で春に花が咲き、秋には美しい紅の実が鈴なりに付く

開祖一向聖人だびの跡

 昭和33年文壇の雄長谷川伸が 南無帰命頂禮 親をたづぬる子には親を 子をたづぬる親には子を めぐり合わせ給えと 悲願を込めて建立した地蔵尊

弁財天・八大龍王

山王日吉神社

開祖一向俊聖上人の廟所

 寺伝によれば、正徳4年(1714)彦根城主井伊直舷公の奥方、重病にかかり此の地蔵尊に平癒祈願せられたところ、霊験あらたかにして身代わりに立たれ重病快癒なりと。最近は交通安全祈願者が多い。

 元弘3年5月、京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は、北朝の天子光源天皇・二上皇・皇族等を奉じ、東国へ落ち延びるために中山道を下る途中、当地にて南朝軍の重囲に陥り、奮戦したるも戦運味方せず戦いに敗れ、本堂前庭にて4百30余名自刃す。鮮血滴り流れて川の如し。故に 「血の川」 と称す。時に元弘3年5月9日のことである。

 弘安7年(1284)鋳造の銅鐘で蓄能・畜生の二僧の勧進により完成した。国重要文化財

鐘楼

本堂の蓮華時の扁額

貝多羅樹(バイタラジュ)

樹齢700余年の一向杉

忠太郎地蔵尊

血の川

歌碑

蓮華寺寺標

北条仲時公並びに430余名の墓

北条仲時井か432名墓所説明

山門の勅使門 (内)

山門の勅使門 (表)

名神高速道路高架先の蓮華寺