メニュー
前へ   磐田~浜松 次へ   新居~二川

東海道   (浜松(高塚)~新居)


平成29年3月9日(木)   ☀|☁    浜松(高塚)~新居  13.5㎞
昨日の続きで、午前6時30分に浜松駅を出て午前7時前に高塚駅に到着し、街道歩きのスタートである。今切の渡し(浜名湖)の手前の舞坂宿からは、海抜2m~3m程の道を進み新居宿に入る。距離は無いが、新居から先は街道に近い駅が無いので、無理をせずゆっくりと寺社仏閣などを見ながら進んで行く。

浜松駅 名残松 旧道口 立場跡
午前6時30分の浜松駅南側は、人通りもまばらであり、駅舎の奥に朝陽を浴びた浜松アクトタワーが聳えている。 高塚駅から街道に出ると、2本の名残松が立っている。
上空に雲は無く、気温はやや低いが絶好の街道歩き日和である。
名残松の先で国道257号線と分かれて、右手の旧道に入って行く。 旧道に入って間もなく左手に立場跡がある。
ここは立場本陣とも言われ、大名等身分の高い人達が多く休憩した。
明治元年(1868)には明治天皇が御小休されたという。こうした記録が 「御東幸御小休帳」 や文化年間の 「御大名様御小休帳」 に残されている。筋向いには、道中案内記にも載っている茶屋 「浅田屋」があった。

東神明宮 保泉寺 篠原の一里塚跡 篠原の街並み
立場跡の直ぐ先の右手に、街道に面して東神明宮がある。
東神明宮は、建暦2年(1212)浜名湖における小島神明島に鎮座して、永徳年間(1381-84)現在地に遷座し、徳川幕府から御朱印五石を下賜されたという。
参道左側には、鞘堂に入った秋葉山常夜燈がある。
東神明宮から200m程先の右手筋を入って行くと臨済宗妙心寺派の保泉寺がある。
境内はすっきりしており、本堂が建っているだけである。保泉寺 は、天竜区春野町の火防の神・秋葉寺の分院で、毎年1月18日に、明治時代から続く伝統行事 「火渡り」 が行われている。
街道に戻ると、直ぐ右手の民家前に篠原の一里塚跡がある。
東海道宿村大概帳に 「壱里塚木立左松右榎左右の塚共篠原村地内」 と記されており、南側に松、北側に榎があった。
ここは江戸日本橋から数えて67里目の一里塚である。
早朝の街道には、時折、車やバイクが行き交う程度で静かな街並みである。

高札場跡 秋葉燈籠 篠原小学校 秋葉燈籠
篠原郵便局前の信号交差点を過ぎると、次の十字路の右角に高札場跡がある。
高札のあったこの辺りは、札木という地名であり、明治6年(1873)太政官布告をもって廃止された。
先に進むと鈴木米穀店の脇に秋葉燈籠が建っている。
この辺りの海抜は3mである。
街道左手にある浜松市立篠原小学校は、この辺りの避難地となっている。
ここ海抜は2.9mである。
篠原小学校の西側で長里橋を渡ると、直ぐ先の右手の民家脇に秋葉燈籠が建っている。

愛宕神社 秋葉燈籠 稲荷神社 秋葉燈籠・高札場跡
秋葉燈籠から150m程先の右手に愛宕神社がある。
愛宕神社は、文禄元年(1592)坪井郷新田村開発当時に氏神として京都愛宕神社から御分霊を奉斎したのに始まる。慶長6年(1601)徳川家康が鷹狩の折、祈願したと言われている。
参道入口には、愛宕燈籠が建っている。
街道を進んで坪井町北交差点を過ぎると、右手に見える林の手前の筋角に秋葉燈籠が建っている。 続いて右手の林の中に稲荷神社がある。
稲荷神社は、永享12年(1440)伏見稲荷より勧請したと言われ、慶安元年(1648)徳川家光の時の幕府より朱印五石が下賜されている。
現在の拝殿は、大正11年(1922)に建てられたもので、境内の森の木が建築材として利用された。
境内には、文化2年(1805)の石燈籠・文化13年(1816)の石鳥居などがある。
稲荷神社から程なく、街道右手の民家前に鞘堂に納められた秋葉燈籠が建っている。
鞘堂の前には高札場跡の立札が建っている。

東光寺 如意寺 馬郡観音堂跡 高札場跡
高札場跡の20m程先の右手路地角に小さな東光寺寺標があり、この筋を100m程入ると臨済宗妙心寺派の富士山東光寺がある。
東光寺は、慶長6年(1601)の開山で、本尊は薬師如来、東海四十九薬師霊場第41番札所である。
境内には、文化7年(1810)の暴風雨によって海岸に打ち上げられた亀の供養塔、一面六臂の青面金剛の庚申塔などがある。
東光寺の北側に曹洞宗の如意寺がある。
如意寺の創建年代等は不詳であるが、新四国浜名湖岸60番札所となっており、街道沿いにあった馬郡観音堂に祭られていた定朝作の木造観音が安置されている。
境内には、享保年間勧請の大聖弁財天、八幡宮の境内社がある。
街道に戻ると右手に鞘堂に納められた秋葉燈籠があり、その奥に馬郡観音堂跡がある。
パイプ柵に囲まれた中に 「引佐山大悲院観音堂聖跡碑」 が建っており、傍らには津島神社の祠が建っている。
馬郡観音堂跡の先に進むと、馬郡町自主防災倉庫の前に馬郡村の高札場跡がある。
この高札場は明治政府も使っていたが、明治6年(1873)に廃止された。この直ぐ近くには 「札木さ」 と呼ばれている家がある。
また馬郡自主防災倉庫の左隣には、秋葉燈籠が建っている。

東本徳寺 西本徳寺 春日神社 松並木
高札場跡から程なく右手に日蓮宗の長久山東本徳寺がある。
東本徳寺は、身延山第11代行学院日朝上人が南北朝期の永徳元年(1381)に開いたと言われている。街道に面して南無妙法蓮華経題目碑と清正公三百年祭記念碑が建っており、境内には清正堂がある。
東本徳寺の直ぐ西側に日蓮宗の長久山西本徳寺がある。
西本徳寺も東本徳寺と全く同じで、身延山第11代行学院日朝上人が南北朝期の永徳元年(1381)に開いたと言われている。西本徳寺のご本尊は釈迦牟尼仏で、街道に面して海中出現釈迦牟尼仏安置碑が建っており、明応7年(1498)の津波で流された釈迦像が漁師の網に掛かり本堂に安置されている。
馬郡跨線橋南交差点を渡った右手の林に春日神社がある。
春日神社は、永徳元年(1381)甲州身延山第11世沙門律師日朝上人が諸国行脚の折、村民と共に建立したもので、奈良の春日神社より勧請したと言われ、拝殿前に狛鹿が設置されており、海抜2.6mの境内には、津島神社・水神の境内社がある。
舞阪駅南入口交差点を過ぎると東海道の松並木が続いている。
この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康の命により街道を整備し、黒松を植えたのに始まり、正徳2年(1712)には舞阪宿の東端 「見付石垣」 より馬郡まで、8町40間(約920m)道の両側の堤に、1,420本の立木があったという。
松並木の下には、東海道道標・東海道53次の宿場碑・常夜燈などが設置されている。

舞坂宿碑 舞坂橋跡 浪小僧 白玉稲荷神社
松並木の間に平成3年の舞坂宿碑があり、裏面に今切のレリーフと 「今切真景」 と題された解説が刻まれている。 舞坂宿碑の先に舞坂橋跡があり、裏面に解説がある。
ここには江戸時代、舞坂宿唯一の橋である舞坂橋が架かっていた。北に西長池という大きな池があり、南側から松並木を横切って、昭和10年まできれいな水が流れていた。天保14年(1843)の 「東海道宿村大概帳」 には、「字舞坂橋 土橋 長さ7尺 横3間 橋杭4本立弐組」 とある。(以下略)
松並木が切れるところにトイレが設置されており、その脇に浪小僧が海岸方向を向いて建っている。 浪小僧の先の新町交差点で、街道は国道301号線を横切って直進するが、交差点の北側に白玉稲荷神社があるので寄って行く。
白玉稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、慶長9年(1604)の検地では、「いなり山」 の名が記されている。境内の脇には、舞坂町戦没者慰霊塔が建立されている。

見付石垣跡 舞坂の一里塚跡 街並み 養泉寺
新町交差点を先に進むと、街道両側に見付石垣跡があり、解説板が建っている。
この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永6年(1709)の古地図には既に存在している。見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。
見付跡の直ぐ先に舞坂の一里塚跡がある。
舞坂の一里塚は、江戸日本橋から数えて68里目に位置し、松が植えられていた。
一里塚跡の脇には、文化12年(1815)の秋葉山常夜燈が建っており、道路を挟んだ向かい側にあるポケットパークにも舞坂宿一塚跡碑が建っている。
街道脇には海産物のお店が並び、しらす・のり・かつお節などの看板が見られる。 一里塚跡から350~60m程進んだ十字路を左に入ると曹洞宗の海福山養泉寺がある。
養泉寺は、寛永年間(1624-43)の開創と言われ、延宝年間(1643-81)の検地帳に記載されている。境内には、宗祖道元像・三面地蔵菩薩・境内社の秋葉神社などがある。

宝珠院 岐佐神社 舞坂宿本陣跡 舞坂宿脇本陣跡
街道に戻ると左手に臨済宗方広寺派の海上山宝珠院がある。
宝珠院の創建年代等は不詳であるが、本尊は延命地蔵願王菩薩で、浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第61番札所となっている。
参道入口には、文化10年(1813)年の常夜燈が建っている。
宝珠院の西側に岐佐神社がある。
境内の由緒によると、平安時代に書かれた 「延喜式神名帳」 に遠江六十二座、敷智郡六 座の一つとして記載されており、千年以上の古社である。
境内には、出雲神社とかかわりのある 「赤猪石」、津島神社・伊勢神宮・春日大社などの境内社がある。
街道に戻って先に進むと、右手に舞坂宿本陣跡がある。
ここは宮崎伝左衛門本陣跡で、江戸時代に公家・大名・幕府役人などが宿泊・休憩したところである。
本陣跡の斜向かいに舞坂宿脇本陣跡がある。
ここは堀江清兵衛脇本陣(茗荷屋)跡で、脇本陣当時の両側には旅籠が建ち並んでいたが、現在は商店街になっている。
ここは遺構が残っており、一般公開されている。

常夜燈 渡荷場跡(南雁木跡) 渡船場跡(本雁木跡) 渡船場跡(北雁木跡)
脇本陣跡の直ぐ先でT字路となり、この左角に舞坂の三つ目の常夜燈が建っている。
舞坂の常夜燈は、一里塚跡と宝珠院前、そしてここの三か所である。
ここには文化10年(1813)の常夜燈のほか、東海道道標 「舞坂宿」 が建っている。
常夜燈を左に進むと渡荷場跡(南雁木跡)がある。
ここは荷役・庶民用の渡船場跡で、傍らに水神宮がある
常夜燈の向かいが一般用の渡船場跡(本雁木跡)である。
現在、大きな常夜燈の先は、舞坂魚市場があり、漁船などが係留されている。
本雁木跡の直ぐ先に大名・幕府公用の渡船場跡(北雁木跡)がある。
ここはかつての石垣・石畳の一部が残っており、往時を偲ぶことができる。

那須田又七顕彰碑 常夜燈 弁天橋 弁天神社
北雁木跡の斜向かいに那須田又七顕彰碑が建っている。
那須田又七は、天明4年(1784)の生まれで、村役人・宿役人を長く勤め、嘉永3年(1850)に66才で亡くなった。
顕彰碑の脇には、那須田又七の解説が建っている。
先に進むと、弁天橋の手前に大きな常夜燈が建っており、台座に 「江戸へ67里舞坂宿」 のプレートが貼られている。 赤い欄干の弁天橋から左の沖合に赤い大きな両部鳥居が見え、渡り詰め右手の弁天島記念公園に今上天皇陛下御乗船場記念碑が建っている。 国道301号線に合流する手前左手に弁天神社がある。弁天神社は、江戸時代の宝永6年(1708)今切の渡しの安全を祈願して創建された。
境内には、浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規・茅原崋山・松島十湖の文学碑がある。

中浜名橋 西浜名橋 JR新居町駅 山頭火歌碑
弁天神社から国道301号線に合流して、東海道本線の弁天島駅前を通り、その先で中浜名橋を渡って行く。
中浜名橋は、昭和7年(1932)架けられた西区舞阪町弁天島と湖西市新居町新居を結ぶ鉄筋コンクリートのアーチ橋であるが、現在は中浜名橋橋側歩道橋となっている。
写真は車専用の新しい中浜名橋である。
続いて西浜名橋を渡って行く。
西浜名橋は、昭和4年(1929)に架けられた鉄筋コンクリートのアーチ橋であるが、現在は西浜名橋橋側歩道橋(写真右側)となっている。
西浜名橋を渡って、直線の道を暫く進んで行くと、右手にJR新居町駅がある。
ここは海抜3.6mである。
新居町駅から自転車駐輪場の建物前を通って行くと、植栽の前に山頭火歌碑が建っている。
歌碑には 「水のまんなかの道がまっすぐ」 と刻まれている。
種田山頭火は、山口県防府の大地主の家に生まれた大正・昭和の俳人で、季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる 「自由律俳句」 を詠んだ。

浜名橋 新居関所跡 高札場跡 旅籠紀伊国屋
山頭火歌碑の前のY字路を右に進むと、洲埼川に架かる浜名橋がある。
浜名橋の親柱は常夜燈を模した造りで
、欄干の前に東海道53次之内荒井の広重画が数枚並んでいる。
浜名橋を渡ると右手に新居関所跡がある。
新居関所は、江戸時代には今切関所と言われ、慶長5年(1600)に設置された。度重なる災害で移転を繰り返したが、常に浜名湖岸に建ち、旅人の監視と入り鉄砲と出女を取り締った。
現存する建物は、安政2年(1855)から5年にかけて建て替えられたもので、全国で唯一現存する関所建物として国の特別史跡に指定されている。
新居関所跡の高麗門をくぐったところに高札場跡があり、復元設置されている。 先に進むと左手に旅籠紀伊国屋がある。
紀伊国屋は、元禄16年(1703)に徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿となっており、宿内の老舗で正徳6年(1716)に紀伊国屋の屋号を掲げた。
江戸時代後期の紀伊国屋は、間口5間(約9m)の平屋造りで、部屋数12、裏座敷2、総畳数63であったが、明治7年(1874)の大火で焼失し、二階建てに建て替えられ、現在、一般公開されている。

飯田本陣跡 疋田本陣跡 寄馬跡 臨海院
紀伊国屋の先のT字路突当りに、新居宿の飯田武兵衛本陣跡がある。
飯田本陣は、天保年間(1830-43)の記録によると建坪196坪で、門構え玄関を備えていた。飯田本陣には、小浜、桑名、岸和田藩など約70家が利用した。明治元年(1868)の天皇行幸の際に行在所となり、同年の還幸、翌2年の再幸、明治11年(1878)の巡幸の際も利用された。
飯田本陣前の左側空地のところに疋田八郎兵衛本陣跡がある。
新居宿に三軒あった本陣の内の一つで、天保年間(1830-43)の記録によると建坪193坪で、門と玄関を備えていた。八郎兵衛本陣には、吉田藩のほか、徳川御三家など約120家が利用した。
疋田家は、新居宿の庄屋や年寄役を務めた。
疋田本陣跡の直ぐ先のタカスペットショップ前に寄馬跡がある。
江戸時代の宿場には、公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に百人の人足と百匹の馬を用意した。しかし、交通量が多い時には助郷といって、近在の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。この場所は、寄せ集められた人馬の溜り場になったところである。
疋田本陣跡と寄馬跡の間にある筋を西に入ると寺道と呼ばれる小路があり、山側に曹洞宗の新居山臨海院がある。
臨海院は、永享8年(1436年)真達将公和尚が、今の場所より南の太平洋に近い日ヶ崎村に隣海庵を開創したのが始まりで、宝永4年(1707)の大津波により諸堂が流出し、翌年今の地に移転、日ヶ崎山を新居山と改めた。山門は、最も古い建物として残り、「ジキジキ像」 が祀られている。

本果寺 神宮寺 諏訪神社 龍谷寺
臨海院の南側に法華宗陣門流の正興山本果寺がある。
本果寺は、もとは真言宗の寺院であったが、元中7年(1390)本興寺の末寺となり、法華宗に改宗した。徳川家康をはじめ代々の将軍より朱印を下賜され、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置している。山門は黒塗りの医王門で、乗馬のまま通行できることから武家用門ともいわれている。
本果寺から寺道を南に下ると臨済宗方広寺派の白翁山神宮寺がある。
神宮寺は、応永2年(1395)仲翁和尚による開山と伝えられ、江戸時代後期までは代々の住職がいたが、嘉永元年(1848)から東福寺が兼務するようになった。
境内には、子安観音堂・関所稲荷大明神などがある。
神宮寺を出て寺道を少し南下すると、右手に大きな常夜燈があり、その山側に諏訪神社がある。
諏訪神社は、景行天皇19年(約1900年前)の創立と伝えられている。当初は新居宿の総氏神・猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永5年(1708)現在地へ遷座した。参道脇には、推定樹齢450年といわれる御神木のケヤキの巨木がある。
諏訪神社の下方に臨済宗妙心寺派の東湖山龍谷寺がある。
龍谷寺は、創建当時は浜松市入野町にあったが、寛文5年(1665)萬牛紹昌和尚により、東に湖が見えるこの地に再興、開山となった。寛永4年(1707)の大地震で諸堂が崩壊し、翌年第二世の江国和尚が再建した。境内には、弘法堂・地蔵堂などがある。

常夜燈 池田神社 鷲栖院 格子の旧家
寺道から街道に戻って先に進むと、右手の民家の前に常夜燈が建っている。
常夜燈の前には、秋葉神社と思われる小社が建っている。
常夜燈の直ぐ先左手にある 「あさくら歯科医院」 の隣に池田神社がある。
ここは天正12年(1584)小牧・長久手の戦において戦死した池田信輝の首を、徳川家康による首実験の後に埋葬し、首塚を建てたところである。現在この神社は整備されておらず、境内は雑草が繁り、荒れ放題になっている。
池田神社の先の十字路を左に入ったところに曹洞宗の天正山鷲栖院がある。
鷲栖院は、貞和年間(1345-49)以前の創立といわれ、創建時は天台宗の寺であったと言われている。天正元年(1573)に再興して新福寺末寺となり、慶長19年(1614)に開山堂を建立し、宝永6年(1709)に諸堂を改修している。
境内には、関守番頭佐橋甚兵衛の墓がある。
鷲栖院から街道に戻ると、十字路の左側2軒目に格子の見事な旧家がある。
格子のある建物は、隣の建屋と繋がっており、かなり大きな旧家である。

若宮八幡宮 新居の一里塚跡 東福寺 新居町奉行所跡
先に進むと右手の愛宕山山裾に若宮八幡宮がある。
若宮八幡宮の創建年代は不詳であるが、宝永5年(1708)に現在地に移る前は柏原地区にあったと言われ、正徳4年(1714)に社殿が再建されている。
境内には猿田彦神社があり、更に愛宕山を登って行くと、源頼朝歌碑・観音菩薩があり、その先の展望台から遠州灘を一望できる。
街道に戻ると左手に新居の一里塚跡がある。
慶長9年(1604)二代将軍秀忠が一里塚を築かせたといわれ、東海道では104カ所あった。
ここは江戸日本橋から数えて69里目であり、左(東)にエノキ、右(西)に松が植えてあった。
一里塚の先のY字路(現在Y字路の中央道路を工事中)を左に曲がると臨済宗方広寺派の瑠璃光山東福寺がある。
東福寺は、仁和2年(886)薬師如来像と仁王像が漁師の網にかかり、翌年賢嶺法印が薬師堂を建てたのが始まりと伝えられ、その後、建保5年(1217)に諸堂が建立された。境内には、薬師堂・稲荷大明神・湖西市指定天然記念物のマキがある。
東福寺の更に東側の新居小学校前に新居町奉行所跡があり、解説に次の記載がある。
元禄15年(1702)今切関所の管理が幕府から吉田藩(豊橋市)に移されたことに伴い、新居宿及び周辺の村々も吉田藩領となり、このため新居に町奉行所が設置された。町奉行所は、町役所とも言われ、関所役人が居住した中之郷の北屋敷に対し、南屋敷と呼ばれた。設置当初は元新居にあったが、宝永5年(1708)の新居宿移転によりこの一帯に移った。

棒鼻跡 東海道道標 諏訪上下神社 風炉の井跡
街道に戻ってY字路(現在Y字路の中央道路を工事中)を右に進んで行くと、街道が左に桝形となるところに棒鼻跡がある。
解説によると、ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。棒鼻とは、駕籠の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったと言われている。
枡形の先で県道417号線に突き当たると、右手の横断地下道の入口脇に東海道道標 「橋本・新居宿加宿」 が建っている。 県道417号線を横断地下道で渡った先に諏訪上下神社がある。
諏訪上下神社の創建年代等は不詳であるが、往古は諏訪山に一社あったものを現在地に合祀したものと言われている。
境内には、金山神社・神明神社・塩釜神社の境内社がある。
街道に戻って県道417号線を先に進むと、橋本西交差点の手前左手の民家脇に風炉の井跡があり、鉄柵で囲われている。

教恩寺 旧道口
橋本西交差点(Y字路)の右手に時宗の橋本山教恩寺がある。
教恩寺は正安2年(1300)の創立といわれ、文明年間(1469-86)鎌倉公方足利持氏より寺領を与えられ、天正年間(1573-91)に火災に遭って焼失した。
現在の本堂は応賀寺の下寺だった堂宇を明治6年(1873)に移築したものである。
橋本西交差点のY字路を右に進むのが、旧東海道である。
本日は、ここで終了し、新居町駅まで戻って豊橋で宿泊することとする。

前へ   磐田~浜松 次へ   新居~二川