この地に永く安置されていた観世音菩薩は、引佐細工の観世音と言い、高さ1尺2寸5分(約38㎝)の立像で、定朝法橋上人の真作であると伝えれれる。
 第68代後一条天皇の治安元年(1021)定朝上人諸国巡行の途中山住神社(水窪町)に山籠りされた時神託を感じ、引佐細工の里に行き老杉の元で一心不乱に大悲十句の秘文を唱え祈り続けられた。7日7夜の三更(午前0時前後)老杉の頂が光り輝き、忽然として聖観世音菩薩が応現された。その慈悲に感激し、ありがたさの万分の一をも残そうと老杉を伐り、聖観世音菩薩の尊像を一刀三礼して彫り上げ、国家安民五穀豊穣のため引佐の地に堂宇を建てて、安置し奉った。
 第76代近衛天皇の久安5年(1149)8月下旬に天災地変あり、山崩れや洪水によって田野は荒れ、山川村里は一時に大海となった。この時、菩薩の霊訓によってこの地に遷し、草庵を造り安置申し上げた。
 仁安の頃(1166)多田満仲五代の孫、従五位の下、伊賀守源光行公の紀行に、筑紫(九州)の人、頼み事があって鎌倉に下るとき参詣して、望叶うならば御堂を建立申そうと祈願し、目的を達成してお礼に堂を新しくしたとある。それ故に光行公も詣でて、多くの人々の願望成就のしるしを見、大悲大慈の恵みは広く、深く、たのもしく思われて歌を詠んだ。
     たのもしな 入江に立つる 身をつくし
        深き志るしの ありと聞くにも
 右の一首、光行公が観世音お前に詠まれたと東海道名所図会に見える。
 第90代後宇多天皇の弘安年中(1283)佐夜の中山(掛川菊川の境)の化鳥退治のために勅命を受けた上杉三位高実公が下向の折も当観世音に祈願なされ、成就速やかであったなど伝わる。
 また、寛文12年(1672)4月23日、新居宿の住人片山権兵衛紀州熊野浦にて難破したが、大悲の感応を得て助かった。その礼謝としてお堂を建立、寄付した。以上は、延宝5年(1677)5月8日、如意寺4代利州難禅和尚の書き遺された観音由来を略記したものである。
 その後も東海道を往来する人々に、ご利益ある観音として聞こえ、文化年間(1804-14)江戸の商人遠州屋源八、相良屋茂七など多くの人から大般若経600巻が奉納された。今も1月17日の大般若法要で目にすることができる。
 観音像は、昭和42年(1967)以来、如意寺に安置してある。

引佐山大悲院観音堂聖跡碑が建つ観音堂跡

引佐山大悲院本尊観世音由来

津島神社