月や風や 夏しら波の 海と湖

天の川 濱名の橋の 十文字

棹を移して揺かすを休めよ湖底の天 芙蓉夢の如く華嶺を蘸(ひた)す 関せず咫尺海涛(しせきかいとう)の壮なるを 白鳥白帆相伴ふて眠る

 茅原崋山(1870-1952)は明治・大正・昭和にわたって活躍した東京出身の社会評論家・ジャーナリストです。この漢詩は大正15年(1926)に詠まれ、詩碑は遠州地方の読者たちが昭和5年(1930)に建立しました。

弁天島と天女説明

弁天神社拝殿

 昔、弁天島のこの辺りは砂州が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松(はくさせいしょう) 「天の橋立」 のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。
 それから長い年月が経ち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、洲埼の一部であった弁天は湖に取り残されて島となりました。その後、舞坂と新居の間は渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の宝永6年(1709)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられました。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。御祭神は「市杵島姫命」といい、海上・交通・家内安全・商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されています。

 松島十湖(1849-1926)は浜松市出身の県西部地方の明治・大正期を代表する俳人の一人で、報徳運動家・政治家でもありました。この句は明治41年(1908)夏の作で、句碑は大正初年に建立されたと思われます。

 正岡子規(1867-1902)は愛媛県松山市出身の俳人・歌人で、俳句革新運動を起こしました。この句は、明治28年(1895)秋に上京した際、途中汽車の車窓より浜名湖を眺めて詠んだ作品とされています。句碑は大正14年(1925)に浜松曠野社(加藤雪傷主宰)が建立しました。

茅原崋山詩碑

松島十湖句碑

正岡子規句碑

手水舎

弁天神社本殿

拝殿内部

拝殿に掛かる辯天神社の扁額