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東海道   (磐田~浜松(高塚)


平成29年3月8日(水)   ☀|☁   磐田~浜松   16.9㎞
本日は、磐田市森下から天竜川を渡り、浜松宿を通りできるだけ先まで行きたいところだが、浜松宿に入ると神社仏閣が増えて来るので無理をせずゆっくりと進む予定である。今日の行程は途中の寄り道を考慮しても20~22㎞程度であろう。

森下南 若宮八幡宮 明治天皇御座所跡碑 長森立場跡
時刻は午前7時前だが、陽は上り天気は良さそうである。
昨日の続きの森下南交差点を直進して西へ向かっていく。
先に進むと間もなく、右手の森下公園の奥に若宮八幡宮がある。
参道口の由緒によると、明治7年(1874)近隣28ヶ村の神社が合祀され、若宮八幡宮となり、祭神は仁徳天皇、応神天皇、神功皇后の三神が祭られている。本殿の両側には、たくさんの境内社が並んでいる。
街道を先に進むと左手に駐蹕地と刻まれた明治天皇御座所跡碑が建っている。 明治天皇御座所跡の直ぐ先、信号十字路の手前に長森立場跡がある。
ここには東海道道標と長森立場・長森かうやくの説明板がある。

天竜川堤防 天竜川橋 ポケットパーク 旧道口
信号十字路を右折して、ゴールドモンキー豊田店の前の十字路を左折すると天竜川の堤防に突き当たる。 堤防に上がると長い天竜川橋が見える。
かつて天竜川は舟渡しであったが、現在は上流側にある新天竜川橋にある歩道で渡って行く。橋の長さは912mあり、風が強いと身体が持っていかれそうになる。
橋の袂には、天竜川治水祈念公園があり、顕彰碑が建っている。
新天竜川橋を渡ると、天竜川橋渡り詰めとの間に東屋のあるポケットパークがあり、東海道案内板がある。
案内板には、中野町マップ、かつての木橋・天竜川橋・帆掛舟などの写真が載っている。
ポケットパークから県道261号線を渡って堤防脇に降りると、堤防に沿った旧道がある。

横町通り 明治天皇玉座迹の碑 六所神社 旧東海道標柱
先に進むと六所神社手前に横町通り解説がある。ここ横町通りは、江戸時代には東海道と富田・一色の渡船場を結ぶ堤の往来として多くの旅人が往来し、この辺りには川高札が立てられていた。大正時代から昭和初めにかけて、天竜川を利用した流通が盛んになり、木材を筏に組んで川を下る筏師や、上流の久根銅山・峰の沢鉱山から鉱石を運ぶ帆掛船の船頭たちで、この通りは大変賑わっていた。 横町通り解説の奥の堤防脇に、天竜川を向いて明治天皇玉座迹の碑が建っている。
傍らには、明治大帝御聖跡碑と舟橋之記碑が建っている。
明治11年(1878)11月1日、北陸東海巡幸の際、当所で休憩された。御座所は金原明善の設立に係る治河協力社の建物内で、明善夫妻を御謁見された当時の建物は、明治25年焼失し、建物跡の前面に玉座迹の碑を建立した。
明治天皇玉座迹の碑の西側に六所神社がある。
六所神社は、健治2年(1276)尾張国中野郷より勧請し、三柱の海神と三柱の航海の守り神の六柱の神様が祭神として祭られている。当初の社殿は、天竜川を背にして西向きに建てられていたが、天竜川堤防の改修により南向きとなった。境内には秋葉神社・金刀比羅神碑・舟橋木橋跡解説などがある。
六所神社の脇に旧東海道標柱が建っており、傍らに中ノ町道路元標があり、この先に中野町の旧道が延びている。

天竜川橋紀功碑 東橋跡 石垣清一郎生家 軽便鉄道軌道跡
街道を進むと右手に 「紀功碑」 と刻まれた天竜川橋紀功碑が建っている。
この石碑は、天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平の業績を刻んだものである。浅野茂平は、明治元年の明治天皇東幸に際して天竜川に船橋を架けて安全な渡河に功績を残したほか、明治7年には船橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の活性化に大きく貢献した。
紀功碑の先の県道313号線との交差点右角に東橋跡がある。
かつてここを流れる小川には、土橋が架かっていた。中野町村では一番東の橋であり、東海道を往来する旅人は、皆この橋を渡った。
この東橋が、中野町繁華街への入口でもあった。
街道左手の石垣内科医院のところに石垣清一郎生家の解説がある。
明治18年中野町に生まれた清一郎は与謝野晶子が主宰する新詩社 「明星」 に参加した浪漫派歌人で、「秋の風都へかえる学友の待合室のトランクに吹く」 の抒情歌で知られる。昭和2年に県会議員となり、昭和21年より中野町村村長を務めた。
石垣清一郎生家から100m程先の右手路地に軽便鉄道軌道跡標柱が建っている。
軽便鉄道は、明治42年から、浜松~中野町の11駅間を走っていた。「けいべん」 と親しまれたこの列車は、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで客車一輌を引いて、家並みの軒先すれすれを、のんびりと走っていた。昭和3年以降は、軌道自動車(ガソリンカー)に変わり、昭和12年に廃線となるまで、沿線住民の足として愛された。

松林寺 かやんば高札場跡 東海道松並木跡 金原明善生家
軽便鉄道軌道跡の直ぐ先に臨済宗の鶴翁山松林寺がある。
松林寺は奥山方広寺の開山である無文元選禅師(後醍醐天皇の息子)が天竜川に近いこの地に足を運んだ折に、草庵を建てて禅師を迎えたとされ、その草庵がやがて松林寺になったといわれている。ご本尊は地蔵菩薩で、境内には徳川家光が浜松城主に命じて建立させたという薬師堂や奥山大権現などがある。
松林寺の向かいに、かやんば高札場跡がある。
高札場跡標柱の脇に高札を模した立板が根元から折れて倒れていた。表面はほぼ消えかけているが、「南住民五ヶ条 一、私達は地域の行事に積極的に参加します。 一、私達はごみ収集のルールを守ります。 遠江国萱場村」 などと読み取れた。
松林寺の直ぐ先右手に東海道松並木跡があり、説明板が建っている。
この付近には、かつて東海道の松並木があり、江戸時代の 「東海道宿村大概帳」 によると、中野町村の松並木の延長は北側100間、南側40間となり、町内は家が立ち並んでいたため、松並木はこの一帯だけにあったという。
続いて右手に天竜川の治水に生涯をかけた金原明善の生家がある。
明善は、雨が降り続いた時には、寝食を忘れて水害を防ぐために奔走し、大洪水となった際には、不眠不休の救助活動に努めた。さらに明善は、治水事業を目的とする治河協力社を設立し、堤防工事に努めるとともに川の氾濫を治めるためには健全な森林を育てる必要があるとして、植林にも着手した。築200年の建物と塀は見事であり、表門脇に金原明善翁生家碑が建っている

本坂通(姫街道)安間起点 旧東海道標柱 名残松 八柱神社
県道312号線に合流する手前の右手筋口に本坂通(姫街道)安間起点の説明板がある。
この地点は本坂通(姫街道)の起点であり、もと 「従是鳳来寺」 の道標があり、本坂通(姫街道)が鳳来寺道でもあったことを示している。
この地点の西には、江戸から64番目の安間一里塚があった。この一里塚は本坂通(姫街道)の一里塚も兼ねていたが、現存していない。
街道が県道312号線に合流する地点に、旧東海道標柱が建っている。 県道312号線に合流して直ぐ安間川に架かる安間川橋を渡り、その先で国道1号線浜松バイパスの高架をくぐると左側に名残松が数本立っている。 名残松の向かいの路地を右に入って行くと和田小学校の隣に八柱神社がある。
八柱神社の創建年代等は不詳であるが、慶長6年(1601)の大久保十兵衛ほかの連署が残っていることから、この頃から鎮座していたと考えられている。境内には、樹齢数百年もある黒松62本があり、拝殿脇には金原明善の顕彰碑が建っている。

道標 立場跡 名残松 南無妙法蓮華経題目碑
八柱神社から街道に戻ると、次の右手筋に道標が建っている。
道標には、「右篠ヶ瀬原島方面道、和田尋常高等学校入口」 と刻まれており、道標の奥は現在の和田小学校に通じている。
道標から50~60m程先の左手に根元から左に曲がった松があり、立場跡の説明がある。
ここは、見付宿と浜松宿の間に置かれた休憩所で、藤棚があって旅人を楽しませたと伝わっている。
立場跡を過ぎると、左手に数本の名残松がまばらに立ち並んでいる。 街道が緩やかに右にカーブするところの左筋に南無妙法蓮華経題目碑が建っている。

妙恩寺 六所神社 長伝寺 浜松アリーナ
南無妙法蓮華経題目碑の筋を南に入って行くと日蓮宗の長光山妙恩寺がある。
妙恩寺は、鎌倉時代の応長元年(1311)日蓮大聖人の孫弟子日像菩薩を開山とし、金原法橋左近将藍を開祖として出来た、遠州最初の法ヶ道場である。妙恩寺には、三方原の戦いに負けた家康が逃げ込んできたという伝説がある。境内には、清正堂・開山堂のほか金原明善の供養塔がある
街道に戻り、天竜川駅入口交差点を右折すると六所神社がある。
六所神社の創建年代は、永禄年間(1558-69)であるが、その後、慶安元年(1648)に再建された。
境内には、「お宮の松」 と呼ばれる直径3mの黒松があったが、昭和54年(1979)の台風による被害のため伐採された。参道脇には、秋葉山常夜燈の建屋があり、中には何もないが火之迦具土神が祀られている。
街道に戻って天竜川町西交差点を過ぎて、右手のあすみ接骨院の先の筋を入って行くと臨済宗方広寺派の瑞金山長伝寺がある。
長伝寺の創建年代等は不詳であるが、墓所には長伝寺に住んで人々に尽くし、尊敬され慕われた医師・村尾多聞の墓があり、境内には薬師堂がある。
街道に戻って、一本の名残松のある比較的広い十字路を越えると、右手に浜松アリーナがある。浜松アリーナは、各種スポーツ大会の会場、国際的な競技大会や各種文化イベントにも利用可能な多目的ホールである。
建物の前には、歌川広重の東海道53次之内浜松冬枯ノ図が掲げられている。

光禅寺 八柱神社 東海道道標 子安神社
浜松アリーナ前の交差点を左(南)に入って行くと臨済宗方広寺派の覚王山光禅寺がある。光禅寺の創建年代等は不詳であるが、昔は興禅寺と呼ばれ、当時は七堂伽藍が立ち並ぶ大寺であったという。
境内には、大日堂があり木造胎蔵界大日如来坐像が安置され、また八臂弁天という弁財天がある。
光禅寺に隣接して八柱神社がある。八柱神社という名の神社は、浜松市に15社ある。
ここ大蒲町の八柱神社の創建年代等は不詳であるが、鳥居は金属製の鳥居であり、本殿は鰹木のある神明造で、両脇に一回り小さい神明造の社殿と稲荷神社がある。
鳥居の近くには、やや傾いた秋葉大権現と思われる御堂がある。
街道を進むと国道152号線に合流する子安交差点の左側に東海道道標 「植松原」 が建っている。 東海道道標の建つ子安交差点を左折すると左手に子安神社がある。
子安神社は、この地の庄屋伊藤家の祖先が、寛永12年(1635)浅間神社の分霊を祭り、家の守護神としたことに始まるが、伝説には源範頼が娘の無事出産を願って創建した話が残されている。

琵琶橋 蒲神明宮鳥居 圓通寺 龍梅寺
子安交差点から100m程先に芳川に架かる琵琶橋がある。 琵琶橋の先の信号交差点に蒲神明宮鳥居が建っており、社殿はここから600m程先にある。
蒲神明宮は、藤原鎌足の子孫である越後守藤原静並公が伊勢大神のご神託を受け、蒲の生い茂るこの地一帯を開発し、大同元年(806)この地に伊勢神宮の御神体を分霊して創建した浜松市最古の神社である。
境内には、厳島神社・五社稲荷神社・天王社など多くの境内社がある。
蒲神明宮鳥居の向かいの通りを南に入ると臨済宗方広寺派の大慈山圓通寺がある。
圓通寺は、応永16年(1409)に方広寺開山の無文元選禅師の法孫にあたる慶道大和尚により創建され、室町時代から江戸時代にかけて隆盛を誇った由緒ある寺である。
境内には、人助け稲荷と呼ばれる稲荷神社がある。
街道に戻って進むと、街道に面して臨済宗妙心寺派の北野山龍梅寺がある。
龍梅寺の創建年代は不詳であるが、承応年間(1652-54)に創建されたと言われ、境内には、焼き餅を供えれば願い事を叶えてくれるという 「焼餅地蔵菩薩」、東海道を通行中に急病で亡くなった松平伊豆守信祝の娘光の墓がある。

馬込一里塚跡 旧掛塚街道入口 馬込橋 夢告知地蔵尊
街道を先に進むと、浜松東警察の先左側に馬込一里塚跡がある。
この塚は明治10年(1877)頃には取り壊されといい、この辺りは中世には宇間郷向宿、江戸時代には向宿村と呼ばれたことから、向宿一里塚ともいう。
ここは江戸日本橋から数えて65里目の一里塚である。
馬込川の手前、左手一本目の筋角に旧掛塚街道入口標柱がある。
掛塚街道は東海道に対し、南海道の道路として重要な道であった。明治の中頃までは、天竜川の上流から運ばれてくる材木や鉱石・木炭などを浜松市内まで運ぶ道として栄えた。
旧掛塚街道入口の先に馬込川に架かる馬込橋がある。
ここは浜松宿の東木戸跡でもある。
馬込橋を渡ると道路は4車線となり、一気に整備された街並みになる。
街道を進むと静岡銀行のある十字路手前の右側歩道脇に夢告知地蔵尊と秋葉神社がある。
安政5年(1858)コレラによって死亡した人々を追悼し延命地蔵尊が建立されたが、明治7年(1874)に火災に遭い、更に、廃仏毀釈により土中に埋めらてしまった。その後、住民の一人が 「地蔵尊が地上に出たいと夢に現れた」 ということをきっかけに掘り出され、庚申堂を建てて祀ったものである

万年橋 徳川秀忠の誕生井戸 浜松城大手門跡 浜松城
街道を先に進むと、遠州鉄道鉄道線の高架下に万年橋がある。
現在は暗渠となっている新川を跨ぐ橋であるが、幕末に河井次郎八が石造りの太鼓橋に架け替え、この時に長い歳月に耐えられるようにとの願を込めて 「万年橋」 と名付けられた。
現在の橋は、昭和58年に架け替えられたものである。
万年橋の渡り詰めを右折して遠州鉄道鉄道線に沿って進むと、遠州病院駅前の新川交番の裏手に徳川秀忠の誕生井戸がある。
ここには誕生井戸と刻まれた常夜燈・誕生井戸解説などがある。
街道に戻って進むと、連尺交差点を渡った右手角の大手門ビルの前に浜松城大手門跡がある。
この付近の道路中央に、浜松城の正門である大手門があった。南面する間口8間(約14.6m)、奥行4間(約7.3m)の瓦葺きの建物で、常に武器を備え、出入りが厳しく取り締まられていた。
大手門跡を北に進むと浜松市役所の奥に浜松城がある。
浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、築城時の城主は不明であるが、その後、徳川家康が元亀元年(1570)に曳馬城に入城し、浜松城へと改称した。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから 「出世城」 といわれた。昭和34年に往時の野面積の石垣の上に新天守閣が再建され、現在に至っている。

高札場跡 五社神社・諏訪神社 杉浦本陣跡 杉浦本陣跡
街道に戻って連尺交差点を南に進むと、右手の谷島屋書店の前に高札場跡がある。
この付近の車道中程に、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場があった。
高札場の直ぐ先、右手筋の突当りに五社神社・諏訪神社がある。
五社神社は、初期の曳馬城主・久野越中守が城内に創建したのに始まり、、後に徳川家康が浜松城主となり現在地に遷座した。諏訪神社は敷智郡上中島村にあったが、幾度かの変遷を経て浜松に遷座し、昭和37年に両社が合祀され、五社神社・諏訪神社となった。
境内には、時の浜松城主・高力忠房寄進の手水石・光海霊神之碑などがある。
五社神社・諏訪神社から街道に出ると、街道を挟んだ向かい側に佐藤本陣跡がある。
ここは浜松の本陣6ヵ所の内の一つ佐藤家の本陣跡で、建坪は約225坪(約745㎡)であった。
続いて街道右手の浜松信用金庫前に杉浦本陣跡がある。
ここは浜松の本陣6箇所の内でもっとも古い杉浦家の本陣跡で、建坪は約272坪(約900㎡)であった。

川口本陣跡 梅屋本陣跡 松尾神社 東海道道標
杉浦本陣跡の直ぐ先の伝馬町交差点の横断地下道の脇に川口本陣跡がある。
ここは浜松の本陣6ヵ所の内、最も新しくできた川口家の本陣跡で、建坪は163坪(約540㎡)であった。
川口本陣跡の斜向かいにあたる伝馬町交差点の左手角に梅屋本陣跡がある。
ここは浜松の6ヵ所の本陣の内の梅屋家の本陣跡で、建坪は180坪(約600㎡)であった。
国学者賀茂真淵(本名庄助)は梅屋家の婿養子である。
街道がやや右にカーブする右手のマルキ果物店の角を入ると松尾神社がある。
松尾神社は、和同年間(708-15)の創建で、当時は浜松神社と称し、浜松の総社であった。その後、天正5年(1577)浜松城内の守護神を合祀して松尾神社と改名した。
先に進んだ成子交差点の左角に東海道道標 「浜松宿」 が建っている。
この辺りは、浜松宿の西口で当時は番所があったところである。

法林寺 子育て地蔵尊 八丁畷 新幹線架道橋
街道は、成子交差点を右折していく。
右折して直ぐ右手の筋に浄土宗の泉松山法林寺がある。
 法林寺は、大永2年(1522)慶誉上人愚文法林然公大和尚に開創され、本尊は阿弥陀如来で寺宝に阿弥陀三尊来迎図がある。
街道を進むと菅原町交差点のデニーズの前に子育て地蔵尊がある。
ここにある由来によると、巡礼供養仏の台座に享保8年(1723)と刻まれており、子宝に恵まれた親が石仏を寄進したり、また子供の病が癒えたことの御礼仏であったのではないかと言われている。
東海道本線の第一東海道架道橋をくぐると、左手に八丁畷標柱が建っている。
大正時代にこの辺りを通る旧東海道は、八丁(約900m)に渡って田んぼの真中のあぜ道だったため、八丁畷と呼ばれるようになった。
八丁畷標柱の直ぐ先で東海道新幹線の森田架道橋をくぐって行く。

鎧橋 若林一里塚跡 二つ御堂(北堂) 二つ御堂(南堂)
直線の街道を進むと、堀留川に架かる鎧橋があり、渡り詰めに解説が建っている。
平安時代末期、戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺一帯の水田に水を張り、鎧を着て、この橋を守りを固めて戦ったので、その後、鎧橋と称したという。その時の双方の戦死者およそ千人を鎧橋の北側に葬り、千塚(または血塚)と言ったという。
鎧橋の先の左側にある岡本眼科クリニックの看板の脇に若林一塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて66里目の一里塚であり、当時は土手のある松並木が続いており、一里塚の榎は街道を行く人の道しるべであった。
街道が右に曲がる東若林交差点の両側に二つ御堂が建っている。
奥州平泉の藤原秀衡公とその愛妾によって天治年間(1124-26)に創建されたものであり、北堂は愛妾が秀衡が京で病気の為亡くなったとの誤報を受けて建立したもので、境内には二つ御堂解説と馬頭観音・弘法大師像・高札場跡標柱が建っており、御堂の西側には秀衡の松がある。
二つ御堂(北堂)の道路を挟んだ向かい側に二つ御堂(南堂)が建っている。
南堂は、秀衡が愛妾への感謝の気持ちを込めて建立したもので、御堂には薬師如来・不動明王・大日如来が祭られており、境内には明治天皇御野立所記念碑が建っている

八幡神社 名残松 可美小学校跡 広隣寺
二つ御堂(北堂)の脇の道を入ったところに八幡神社がある。
八幡神社の創建年代等は不詳であるが、山城国(京都府)の石清水八幡宮より勧請したといわれ、ご祭神は品陀和気命(応神天皇)である。境内には、鎧橋の西南にある忠魂碑の所に植えられていた樟が移植されている
街道を先に進むと左側に東海道の松並木標柱があり、前後にまばらに名残松が立っている。
写真は、逆光のため振り返って撮影したものである。
街道右手の可美市民サービスセンターの前に可美小学校跡標柱が建っている。
明治6年(1873)高塚学校として創立され、大正3年(1914)可美尋常小学校となり、昭和22年(1947)可美村立可美小学校となった。
傍らには、天皇皇后両陛下行幸啓記念碑が建っている。
可美市民サービスセンターから300m程先の右手路地を入ったところに、臨済宗方広寺派の大徳山広隣寺がある。
広隣寺の創建年代等は不詳であるが、境内には子育地蔵菩薩、動物供養観音菩薩などがある。

諏訪神社 秋葉山常夜燈 熊野神社 浜松領界石
街道を進むと、街道に面して諏訪神社がある。諏訪神社は、戦国時代の大永4年(1524)信濃国(長野県)上諏訪社より内田六郎兵衛が勧請し、明治中頃まで代々神主を務めた。慶安元年(1648)幕府より三石を下賜され、朱印状の写し九枚を残している。
主祭神は建御名方命(大国主命二男)で、天神社・六所社・八幡社が合祀され、境内には、秋葉神社がある。
街道左側にあるフードマーケット・マムの道路を挟んだ向かい側に、鞘堂に収められた秋葉山常夜燈がある。
この常夜燈は、可美地区に残る唯一の秋葉山常夜燈である。
秋葉山常夜燈の直ぐ先右手に、街道に面して熊野神社がある。
熊野神社は、大正15年(1926)の火災により焼失したため、創建年代等の詳細は不詳であるが、紀伊国(和歌山)の熊野神社神官が諸国遍歴の途中、この地に居を定め祭神を奉祀したことに始まると伝えられている。
境内には、若宮社の境内社のほか、叟蘿魂という増楽町由縁の諸霊御霊を慰霊する碑が建っている。
熊野神社から150m程先の右手にある、ジーユー浜松可美店の敷地の角に、「従是東浜松領」 と刻まれた浜松領界石が建っている。
宝永2年(1702)に高塚(当時高塚村)は、堀江領になったが、増楽(当時増楽村)以東は浜松領であったため、領地の境を示すために建てられたものである。

堀江領境界石跡 地蔵院 高札場跡・秋葉燈籠跡 麦飯長者跡
浜松領界石の直ぐ先の信号交差点右手に堀江領境界石跡がある。
宝永2年(1705)に高塚村は旧北庄内村堀江館山寺に城を構えていた堀江領主大沢右衛門督基隆の領地となり、この年以降、明治維新まで堀江領であった。このため浜松藩との境界の高塚の旧東海道の南側東端に住んでいた高橋長兵衛家の前庭に境界標示の礎石が建てられた。
堀江領境界石跡の先の信号交差点を右に入ったところに臨済宗方広寺派の護法山地蔵院がある。
地蔵院は、明徳元年(1390)に元道円密和尚により創建され、本堂には徳川家康夫人築山御前ゆかりの腹籠り地蔵尊が祀られている。境内には大師堂があり、 弘法大師・薬師如来・半僧坊が祀られている。
街道に戻ると、直ぐ右手のアパートの敷地内に高札場跡・秋葉燈籠跡がある。
東京国立博物館に所蔵されている東海道分間延絵図によると、当時の高塚には、高札場が秋葉燈籠の東側付近にあった。
続いて、街道右手に麦飯長者跡がある。
昔、高塚に小野田五郎兵衛という長者があり、明治維新の頃まで、誰彼の区別なく、街道を行き交う人々に湯茶を接待し、空腹時には麦飯を食べさせていた。いつとなく麦飯をくださる長者様といことで 「麦飯長者」 と言われるようになった。
五郎兵衛の善行が浜松城下にも知られ、小野田の姓が許され、村役人・庄屋を務めた。そのため小野田家は代々、五郎兵衛を名乗っている。

熊野神社 高蔵寺 高塚駅
麦飯長者跡の直ぐ先にある横断歩道橋の脇の筋に熊野神社の赤い鳥居があり、この先を150m程先に進むと社殿がある。
熊野神社は、増楽にもあったが、由緒は同じく紀伊国(和歌山)の熊野神社神官が諸国遍歴の途中、この地に居を定め祭神を奉祀したことに始まると伝えられている。
境内には、推定樹齢500年の椎の木、秋葉神社・天白神社・八柱神社などの境内社がある。
街道に戻ると直ぐ右手に臨済宗方広寺派の妙法山高蔵寺がある。
高蔵寺の創建年代等は不詳であるが、境内には福徳稲荷神社がある。
陽は高いが本日はここで終了し、浜松駅前に出て宿泊することとした。

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