無縁佛

供養塔

 この地蔵尊はいつ頃創建されたか明らかではないが、有名な浄瑠璃「伊賀越道中双六」に出てくる。沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。
 地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり、主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ、自分は旅人の荷担ぎを業として居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(20数年間に別れた平作の子)に娘お米の夫渡辺数馬の為、平作は自害してその居場所を聞き出す。
 <沼津千本の場面>
 平作決心して自害し、「死にゆく仏の供養として聞かせてくれ」 と申します。十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。「仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田で遭うたと人の噂」 と浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。
 平作のおかげで数馬の義兄荒木又右衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来、平作爺さんの義侠心は後の人々の心を打ち茶店のあったと云う場所にひとつの碑を建て地蔵尊を建立しました。
 現在この地蔵尊は延命子育地蔵尊(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め、例祭は毎年7月31日に新しい精霊を迎えて、地元民の手で賑やかに行われております。
  (山王前自治会)

日本三大仇討の一つ 「平作地蔵尊」 の由来

地蔵堂

平作地蔵