二代目城主・水野忠成は、旗本岡野肥前守知暁の二男として生まれ、後に初代城主忠友の婿養子となり、享和2年忠友の死去により家督を継いだ。文政元年(1818)に老中となり死去までの17年間で3万石から5万石に加増、沼津城の二重櫓も完成させた。また、老中首座・勝手掛として幕府の財政の均衡を回復し、治安の維持や商業統制を行うなど、いわゆる文政の改革の推進者として活躍した。

 この中央公園は、三枚橋城と沼津城の本丸跡に位置しています。
 三枚橋城は、天正7年(1579)、武田信玄の子勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築城したものといい、関ケ原合戦後の慶長6年(1601)には大久保治右衛門忠佐が城主になりました。しかし、同18年(1613)の忠佐の死後世継ぎがなかったため大久保家は断絶となり、翌19年、三枚橋城は廃城となりました。
 以後160余年の間、当地に城はありませんでしたが、安永6年(1777)、後に老中となる水野忠友が沼津に城地を与えられ沼津城を築城しました。この沼津城は三枚橋城の北半分を利用して造られましたが、規模は三枚橋城と比べ小さなものでした。
 慶応4年(1868)水野氏の菊間(千葉県市原市)転封の後、城の建物は沼津兵学校の施設として使われましたが、明治4年(1871)の兵学校廃止後払下げられ、姿を消しました。
 この石碑の周囲の石は、昭和48年に上土町の静岡相互銀行(現静岡中央銀行)新築工事の際に地中から発掘されたもので、三枚橋城当時の石垣に使われていたものです。
   (沼津市教育委員会)

沼津城のあゆみ

沼津城本丸址碑

中央公園碑

旧川廓町案内

旧川廓町標柱

川廓通り説明

川廓通りは、狩野川に舟運が開かれていた頃の船着き場に隣接するなど、物資や人々の交通が盛んであり、江戸時代の宿場町・城下町であった沼津の中心的な地域に位置していた。現在の川廓通りは、当時の東海道沼津宿の面影を残そうと昭和30年代まであった石畳をイメージして整備されている。

 志多町と上土町との間の街道沿いにあって、前面は狩野川、背後は沼津城の外廓に接した狭い町域であった。
 狩野川と城廓に挟まれた土地に由来して、町名が付けられたとされている。