忠霊塔

 六代は、平清盛を三代とし、重盛、惟盛、六代と続く平家の頭領となる血を受け継ぐ御曹司である。父親の幼名が五代であったことと符合する。
 元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元年・1185年)すると捜し出され、鎌倉に下る途中の千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。平家の末路を語る上で最も人々の心に残る場面の一つである。その後、出家し妙覚と名乗り、文覚上人の謀反に連座し、誅せられ、その首を友の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと伝えられる。
 江戸幕府の命を受けて、道中奉行井上美濃守藤原利恭らが文化3年(1806)に完成した 「東海道分間延絵図」 にも、千本松原の中にあるひと際大きな松が描かれており、六代御前旧林の文字がある。
 民間では、学識の深い俳人秋里離島が寛政9年(1797)に板行し好評を博した 「東海道名所図会」 には、文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって掲載されている。
 平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人達に親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保12年(1842)碑が建てられた。撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。
   (沼津市教育委員会)

六代松標柱

六代松碑

馬門踏人碑銘

六代松説明

六代松碑入口