「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」 と歌われ、臨済宗中興の祖と仰がれる白隠禅師は、貞享2年(1685)12月25日、長澤宗彝(そうい)を父、妙遵(みょうじゅん)を母とし、三男二女の末子として生まれる。
 15歳の時松蔭寺の単嶺祖伝和尚を師として自ら望んで出家し仏門に入る。19歳から32歳まで修行行脚で全国を巡り、33歳で松蔭寺住職となり、84歳で亡くなるまで松蔭寺を中心に全国各地で真の禅宗の教えを広めた。毛筆の書画に秀でて達磨図や観音菩薩絵は特に有名である。
 現地は母妙遵(みょうじゅん)の生家屋号味噌屋(みそや)の地で、のち父宗彝(そうい)が分家して沢瀉屋(おもだかや)を名乗った跡地である。禅師が生まれた時使用した 「産湯の井戸」 がこの奥に今なお清水を湛えている。

敷地中央に建つ南無釈迦牟尼佛標柱

白隠禅師産湯井碑

街道に面して碑が建っている

水垢離をしたという井戸

生家跡

白隠禅師誕生地碑

東海道原宿白隠禅師誕生地碑