安永6年(1777)水野出羽守忠友は、2万石の大名として10代将軍徳川家治から沼津に城地を賜り、築城を命ぜられました。
 翌安永7年、韮山代官江川太郎左衛門から城地を引き継ぎ、沼津藩創立と共にこの傍示杭を設置しました。傍示とは江戸時代、天領や私領の入り組んでいるところでは、人々に領域の所在をはっきり知らせる必要があり、そのため街道の傍らに立てたものです。この傍示杭は当時沼津藩の西境に立てられたものですが、明治末期頃に折られて、下半分が失われています。
 下石田には 「従是西沼津領」 と刻まれた高さ2.12mの傍示杭が完全な形で現存していますので、「従是東沼津領」 と判断できます。石質、字体、寸法等すべて同一ですので、同時に立てられたものであると考えられます。
   (沼津市教育委員会)

本殿

八幡神社拝殿

下半分が折れた 「従是東沼津領」 の榜示石

八幡神社・神明神社・金山彦神社社標

東海道道標

沼津藩領境と記されている

沼津藩領境傍示説明

詳細な八幡宮の沿革

拝殿内部