三島宿は、慶長6年徳川幕府の交通政策として宿駅に定められ、海道有数の大宿として認められたが、この宿場の施設として同年この場所に問屋場が設置された。
 この施設は、幕府の役人をはじめ、海道を通行する公用の貨客を運ぶための人馬の調達を主目的としていた。問屋場には問屋年寄り、御次飛脚、賄人、帳付、馬指人足、送迎役などあり、問屋場の北側に人足部屋が置かれ、雲助と呼ばれた駕籠かき人夫の部屋があった。箱根・小田原に比較して当時交通量が多かったこの三島宿に一か所の問屋場ですべてを賄っていたため、ここで働く役人や人足は相当数いたといわれ、助郷人馬の動員などと併せ人手不足をかこっていたことが史料で残っている。
   (三島市教育委員会)

問屋場跡

問屋場址碑

問屋場解説