第二次世界大戦が熾烈を極め、戦局必ずしもわれに利あらず、戦略上一大転機に直面し、戦力の画期的増強が急務となった昭和19年2月、若き精鋭を鍛えるため、海軍はこの地に練習航空隊を設置、
当初河和海軍航空隊岡崎分遣隊として発足したが、急遽訓練を開始することとなり名称も昭和19年4月1日岡崎海軍航空隊となり作戦機能も独立して同年5月より本格的訓練が開始され、
その後昭和20年2月第一岡崎海軍航空隊と改称された。
本航空隊は飛行予科練習生の即戦力養成が主任務とされ、全国各地より選抜された童顔なお消えやらぬ熱血の若人が、土浦海軍航空隊入隊、岡崎海軍航空隊派遣の命により、
昭和19年5月入隊の一期生より毎月続々と入隊、12月入隊の八期までその数およそ6千名と記録されている。 入隊後は日夜の別なく猛訓練を重ね、それに堪え抜き逞しい戦士となって、全国各地の実戦航空隊へ実務練習生として巣立って行った。
しかしわが軍の劣勢は如何ともし難く、昭和20年8月15日ポツダム宣言を無条件で受諾、戦争は終結し本航空隊も解隊されるところとなった。
広大な跡地は、戦後の食糧危機に再開拓され元の美田に戻り大いにその成果を挙げてきたが、その後のわが国の驚異的な経済成長に伴い本跡地も著しく変貌し、戦後40年を経た今日、
最早往時を偲ぶ痕跡すらなく幻の如く人人の脳裏から消え去らんとしている。
こヽにわれ等相い集い保存資料に基づき、史実を後世に伝えるため、この由来を記録しておくものである。 昭和61年5月18日
第一岡崎海軍航空隊の由来
自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願し選ばれた若人が六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いた地なり
生涯を祖国に捧げんと此の地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく間もなく血涙をのんだ終戦爾来二十八年吾等相寄り相語り茲に亡き戦友の慰霊を兼ね 「予科練の碑」 を建立するものである
昭和48年5月15日 元第一岡崎海軍航空隊 若桜会
此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり