慶長5年(1600)の関ケ原合戦の直前、家康暗殺の命を受けた美濃国猪鼻城主加賀野井弥八郎(石田方)は、道中出会った浜松城主堀尾帯刀(徳川方)とともに池鯉鮒宿杉屋に赴いた。
 そこで待ち受けていた刈谷城主水野忠重(徳川方)と三人の酒宴が設けられた。その内すきを見て加賀野井は水野を斬り殺したが堀尾に殺された。水野の付人二人はこの責任を感じ、後を追い切腹した。この二人を葬ったのが追腹塚である。
 塚はもと宝町石鼻にあったが、ここに移されたものである。 (知立市教育委員会)

追腹塚説明

追腹塚

子育観音菩薩 ・ 鯖大師(弘法大師)

 加賀野井弥八郎は美濃猪鼻城主であった。慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、石田三成の命を帯びて、徳川家康暗殺を目的に関東に向かったが、志を果たせず帰坂の途中浜松城主堀尾帯刀(徳川方)と会った。加賀野井は堀尾に伴われ池鯉鮒宿杉屋に赴き、刈谷城主水野忠重(徳川方)らと酒宴中水野を斬り、堀尾にも斬りかけたが逆に殺された。
 加賀野井の遺骸は本寺に葬られ、岡崎城主田中吉政が墓を建立した。
 墓は全高45㎝の宝篋印塔で、相輪塔身部分を太平洋戦争中に紛失した。  (知立市教育委員会)

加賀野井弥八郎墓説明

西国四国三十三所観音菩薩

西国四国三十三所観音菩薩

西国四国三十三所観音菩薩

六地蔵尊

加賀野井弥八郎重茂の墓(中央)

鐘楼門の山門

宝蔵寺本堂

本堂内陣