歌川広重が浮世絵東海道五十三次の池鯉鮒で描いているように、当地では馬市が盛大に行われていた。
鎌倉時代の初期に書かれた 「海道記」 に 「池鯉鮒が馬場を過ぎて・・・」 とあり、早くから馬にかかわる地であったことがわかる。
また、江戸時代の浅井了意の 「東海道名所記」、梅月堂宣阿 「富士一覧表」、井原西鶴 「一目玉鉾」、秋里籬島 「東海道名所図会」 等に、馬市の盛大な様子が述べられている。
これらによると馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、遠く甲斐や信濃から馬が集められ、その数は4~500にもおよんだ。 馬を売買する人はもとよりその他の商人や遊女、芸人、役者、人形遣いまでが集まってきてにぎやか極まりない有様であったという。
刈谷藩では山町に馬市番所を設けて馬市の監督にあたった。
池鯉鮒 首夏馬市
東海道五拾三次之内 池鯉鮒 首夏馬市
馬の像
かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく
蝶つばめ 馬市たてしあととめて
俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある
引馬野に にほふはりはら いりみだれ
衣にほはせ たびのしるしに
昭和28年(1953)に建立された万葉歌碑の由来等が刻まれており、この歌は大宝2年(702)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌である。
大宝二年壬寅年十月
持統上皇幸三河国時歌
長忌寸奥麻呂
引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾
馬市之址碑 (裏面)
馬市之址碑
万葉歌碑(裏面)
万葉歌碑