「愛に月待日待の山伏勧進せしゆゑにかくはいへり・・・」
意訳すると、「ここは行人(山伏)が多く住んでいて村のまつりごとや社会奉仕に携わっていたので、この坂を行人坂と言うようになった。」
この資料は井原西鶴が晩年に執筆し、元禄の初めに発行され度々再版された 「一目玉鉾」 の見付の処に書かれた文です。
東京目黒の行人坂は有名ですが、時代的にはここの坂の方が早くから有ったようです。この坂は急勾配で、江戸時代の見付東坂と同じくらい急でした。
行人坂のいわれ
旧東海道行人坂標