旧成田街道 (勝田台~酒々井)
平成30年7月18日(水) ☀ 勝田台~酒々井 16.5㎞ |
昨日に続き朝から相当暑いが好天なので、ザックに暑さ対策グッズを詰め込んで早朝に家を出た。昨日の続きである勝田台へは、午前7時前に着き、駅前で凍ったペットボトルと飲み物を買ってスタートした。この先は臼井宿・佐倉宿・酒々井宿とあるが、旧街道の面影をどの程度残している楽しみである。 |
京成勝田台駅 | 庚申塔 | 井野町会館 | 成田道道標・常夜燈 | |||
早朝の勝田台駅前は、自家用車・タクシー・バスが向かい、かなり渋滞している。 | 勝田台駅前から300mほど進むと、左手のゴルフ5の一角に、やや風化した年代不明の庚申塔が建っている。 | 先に進むと街道右手に井野町会館があり、敷地内に大師堂が建っている。 | 程なく左手のマンションの前に成田道道標と常夜燈が建っている。 道標は、天保2年(1831)に七代目市川團十郎が建立したもののほか2基建っており、ひときわ目立つ常夜燈は、文政10年(1827)に茶屋林屋の前に建っていたものである。茶屋林屋はここより北にある加賀清水の水を汲んで、茶を振る舞って繁盛したという。 |
加賀清水 | 稲荷神社 | 山万ユーカリが丘線 | 道祖神社 | |||
成田山道標の建つマンションの左手脇の路地を150mほど入ると加賀清水がある。 清水が湧き出す池の畔には、加賀清水と刻まれた石祠、厳島神社石祠がある。この清水は第8代佐倉城主大久保加賀守忠朝が、江戸への往来時に必ず立ち寄ったところから、加賀清水と呼ばれるようになったと言われる。 |
加賀清水の西隣には稲荷神社がある。 稲荷神社の詳細は不明であるが、文化年間(1804-17)に創建されたと言われ、井野新田の鎮守として崇敬されている。 境内には、秩父・善光寺・坂東巡礼供養塔・子安観音・出羽三山碑(羽黒山・月山・湯殿山)などたくさんの石造物がある。 |
街道をどんどん進むと、左手のユーカリが丘ニュータウン内を走る新交通システムの山万ユーカリが丘線が街道を横切っている。 この路線は、不動産会社である 「山万」 が建設した純民間資本による鉄道路線である。 |
ユーカリが丘駅前の右手筋を100mほど入ると、右手の上座新田集会所の脇に道祖神社がある。 道祖神社の向かいの段上には、文字庚申塔・一面六臂の青面金剛の庚申塔などがたくさん並んでいる。 |
道標 | 道路元標 | 縁結神社 | 上座総合公園 | |||
街道に戻って進むと、程なく右手のセブンイレブンの前の歩道脇に折れた道標の下部が建っている。 近くに上部が無造作に横になっていたが、成田山信集講社岩田長兵衛と確認できる。これは常夜燈のところに解説があったが、明治27年(1894)に岩田長兵衛が5基建立したものの一つである。 |
道標の先を進むと、200mほど先の信号交差点の右角に志津村道路元標が建っている。 志津村は、明治22年(1889)に井野町ほか7村が合併して発足したが、昭和29年(1954)に佐倉市となり消滅した。 |
街道はやや右にカーブして行き、左からの千代田バイパスが合流する信号交差点の右手に縁結神社がある。 縁結神社の詳細は不明であるが、鳥居には縁結神社の扁額が掛かり、その奥に石祠があり、傍らに道祖神社の石標がある。 |
縁結神社の先の右手の森は、上座総合公園である。街道に面した入口は狭いが、この他に公園入口は何か所かある。 この公園は東西南に広がり、多目的広場や交通公園、3つのプールなどが設置されている。 |
皇産霊神社 | 下り坂 | 不動堂 | 手繰橋 | |||
上座総合公園入口の直ぐ先の、上座信号T字路の右手に皇産霊神社がある。 昨日花見川を越えたところにもあったが、あまり見かけない神社であり、古事記などが伝える天地造化の神(高皇産巣日神・神産巣日神)を祀る神社である。段上の中央に皇産霊神社碑があり、その後に出羽三山碑(羽黒山・月山・湯殿山)が並んでいる。 |
皇産霊神社の先は、緩やかな下り坂の道となる。 | 下り坂の途中、左手に一本のケヤキの大木が聳え、その下に不動堂がある。 風雨で傷んだ不動堂には、不動明王像と壊れかけた大日如来像が安置されている。 境内には大師堂のほか、子安地蔵尊・馬頭観音などの石造物がある。 |
不動堂の先で坂道を下りきると、手繰川に架かる手繰橋がある。 手繰川は、四街道市・佐倉市を流れる利根川水系の河川である。 |
旧道口 | 田久里砦跡 | 手繰坂 | 庚申塔 | |||
手繰橋の渡詰めから左に分岐するのが旧道である。 | 旧道に入って、やや左カーブの坂道となるとこにY字路があり、ここを右に登っていくと、長谷津児童公園の一角に田久里砦跡がある。 ここは千葉氏の一族臼井六郎常康が砦を構えたところで、この砦の守護神であった妙見社石祠がある。傍らには摂社の稲荷社・清龍大神が祀られている。 |
街道に戻ってY字路を左に登っていくと急坂の手繰坂(切通)となる。 往時は、もっと急な坂であったと言われる。 |
手繰り坂をほぼ上り切ったところで、右手から田久里砦跡へ抜けることが出来る細道の脇に庚申塔が建っている。 |
臼井台集落 | 道標 | 妙覚寺 | 熊野神社 | |||
手繰坂を上り詰めると、静かな佇まいの臼井台の集落が続いている。 ここは台地上になっており、かつてこの集落の北東方向に臼井城が築かれ、現在は、臼井城址公園として整備されている。 |
先に進むとT字路に突き当たり、この正面に道標が建っている。 この道標は、文化3年(1806)に建てられたもので、正面に 「右成田三ち」、右面に 「左江戸みち」、左面に 「西さくば道」 と刻まれている。 |
道標から100mほど進むと、右手に妙覚寺の寺標(山門)があり、この路地を150mほど下っていくと右手に、日蓮宗の長谷山妙覚寺がある。妙覚寺は、長享2年(1488)日泰上人が開山であり、本尊は釈迦如来である。 折しも本堂境内は改修中で入れなかったが、本堂向かいの道路脇には、雷電為右衛門の顕彰碑が建っている。 |
街道に戻って80mほど進んだ右手の筋を入ると、左手の臼井台青年館の脇に熊野神社がある。 熊野神社の由緒等は不明であるが、境内には寛政5年(1793)の観音菩薩、出羽三山碑(羽黒山・月山・湯殿山)などがある。 |
妙傳寺 | 下り坂 | 雷電の墓 | 甘酒茶屋跡 | |||
街道に戻ると80mほど先で下り坂となるが、その右手段上に日蓮宗の暁慶山妙傳寺がある。妙傳寺は、弘安6年(1283)平賀本土寺第三世日伝上人が開山であり、当初は臼井城近くにあったという。 山門は、宝暦8年(1758)の鐘楼門であるが、梵鐘は下がっていない。境内には暁慶稲荷社があり、その社殿裏からはうっすらと印旛沼が見える。 |
妙傳寺のところから、街道は一気に下っていく。 | 下り坂をほぼ下りきった右手に雷電の墓を示す木製道標が建っている。 道標に従って、右手高台の妙傳寺を回り込むように進んでいくと墓地があり、その一角に雷電為右衛門とその家族の墓がある。 |
街道に戻ってT字路信号交差点を左折すると、武藤自動車整備工場脇のゴミ集積所のブロック塀に 「雷電婦人おはんの甘酒茶屋あと」 の看板が貼ってある。 昔、成田詣での客で賑わった臼井上宿のこの場所(現武蔵自動車整備工場)に、「天狗さま」 の屋号で知られた甘酒茶屋があり、おはんはそこの看板娘であった。まだ関脇時代の雷電為右衛門が店に立ち寄り、彼女を見染め妻に迎え、八重と名を改め、一女をもうけた。 |
明治天皇碑 | 常楽寺 | 長源寺 | 道誉上人墓 | |||
甘酒茶屋跡から150mほど進むと、T字路の中宿交差点の左角に明治天皇臼井行在所碑と臼井町道路元標が建っている。 明治天皇は、明治14年(1881)・明治15年(1882)の両年に三里塚種畜牧場に行幸され、その際、往復共にここで昼食を取られた。 |
街道は、ここ中宿T字路交差点を右折して行くが、ここを左折して臼井城址公園方向に進むと、真言宗豊山派の稲荷山常楽寺がある。 常楽寺は、暦応元年(1338)臼井氏中興の祖である臼井興胤が開山と伝えられている。 境内には大師堂・天満宮のほか、嘉永3年(1850)の剣の石塔をはじめ、如意輪観音などの石造物がたくさんある。 |
臼井城址公園には立ち寄らず街道に戻ると、直ぐ先のT字路信号交差点の右手に長源寺入口があり、入っていくと正面に浄土宗の龍澤山長源寺がある。長源寺は、元亀元年(1570)の創建で、開山は道誉上人である。当初、境内の左手の山(臼井田宿内砦跡)にあったが、安永元年(1772)の火災で焼失し、天明元年(1781)に現在地に再建された。 境内には享保16年(1731)の地蔵菩薩坐像・南無阿弥陀仏名号碑などがある。 |
長源寺の左手の山腹に道誉上人の墓がある。 道誉上人は、永正12年(1515)和泉国(現大阪府)に生まれ、17歳で武蔵国(現東京都)三縁山増上寺に入り修行した。その後、弘治元年(1555)に増上寺9世の貫主となり、元亀元年(1570)臼井城下に龍沢山玄忠院新大厳寺を開山した。 左の卵塔は天保3年(1832)のもので、右の五輪塔は戦国時代末期のものである。 |
京成本線 | 道標 | 臼井田干拓 | 八丁坂 | |||
街道に戻って右手に臼井田宿内砦跡の小山を見ながら進むと、400mほど先で京成本線の臼井台01号踏切を渡っていく。 | 京成本線の踏切を渡ると、その先のT字路突き当りに道標2基と廻国供養塔が建っている。 背の高い道標は、文化3年(1806)のもので、「西江戸道」 と刻まれ、隣の仏像が刻まれた道標は、年代不詳であるが 「さくら道」 と刻まれている。 |
先に進むと京成本線の脇を通り、左手は印旛沼畔の臼井田干拓で一面に水田が広がっている。 | 新臼井田信号を過ぎると上坂の八丁坂となり、途中短い距離ではあるが木々が茂っているので、この時期の日差しの中では、ありがたい道である。 |
江原刑場跡 | 直線の道 | 大雄寺 | 粟嶋神社 | |||
坂道をほぼ上り詰めた辺りの左手段上に江原刑場跡がある。 ここは佐倉藩が罪人の処刑を執行していた刑場があったところで、寛政8年(1796)の南無妙法蓮華経題目碑が建っている。 |
江原刑場跡のT字路を左折ると、約1.3㎞ほどの直線の道が続いている。 | 直線の道を進むと、左手に黄檗宗の大雄寺がある。 大雄寺の創建年代等は不詳であるが、広くてスッキリした境内には釈迦如来像がポツンと安置され、片隅に大師堂が建っている。 |
街道に戻ると右手に粟嶋神社がある。 粟嶋神社の創建年代等は不詳であるが、境内には寛政2年(1790)の手水石、明治39年(1906)の馬頭観音のほか、秩父三十四所供養塔が建っている。 |
旧家 | 八幡神社 | 地蔵菩薩 | 鹿島橋 | |||
先に進むと緩やかな下り坂となり、右手段上に旧家がある。 この家は、地図表示では栗原染色工場と記載され、明治20年(1887)創業の藍染の老舗であり、最近まで営業していたという。 |
旧家を過ぎると、その先の信号交差点の手前左手の高台に八幡神社がある。 八幡神社は、元禄年間(1688-1703)の創建と言われ、誉田別命(応神天皇)を主祭神とし、境内には流造社殿の境内社、文化8年(1811)の子安観音、道祖神石祠のほか、境内奥の頂に出羽三山碑(羽黒山・月山・湯殿山)がたくさん並んでいる。 |
街道に戻ると、鹿島川に架かる鹿島橋の手前右手に地蔵菩薩が祀られている。 | 鹿島橋は車専用橋であり、下流側に設置された鹿島橋側道橋で渡っていく。 鹿島川は、千葉市緑区の昭和の森公園に源を発し、下流で印旛沼へ流れ込んでいる。 |
市営菖蒲園跡 | 歴史博物館入口 | 城門脇の道 | 両町橋 | |||
先に進むと左手に地蔵菩薩が建つ市営菖蒲園跡がある。 菖蒲園は昭和32年(1957)に開設され、佐倉城址の樹林を背景に中央に池を配し、乱杭を打ち土留とし、小島を設けた和風庭園であったが、昭和50年(1975)に土地利用計画の変更により廃園となった。 |
直ぐ先で右手に佐倉城址の濠があり、大きな冠木門風のゲートが建っている。 ここは昔、城内への田町門があり、番所が置かれていた。 この門をくぐった 「愛宕坂」 を100mほど上った右手に臼杵磨崖仏のレプリカがある。 |
歴史博物館入口の脇から、田町門があった濠の内側を通る道があるので、これを抜けて行くこととした。 | 木々に覆われた道を進むと、濠に架かる両町橋がある。これを渡ると直接旧道に出る。 |
茅葺の旧家 | 愛宕神社 | 海隣寺の坂 | 海隣寺 | |||
両町橋を渡って街道に出ると、右手に茅葺の旧家があり、往時の姿を偲ばせている。 | 直ぐ先の電柱に愛宕神社標識があり、この向かい筋を南に入っていくと愛宕神社がある。 この愛宕神社は、もと佐倉城内の田町門側にあり、土井利勝をはじめ歴代の武士により祀られたと伝えられているが、明治時代に入り廃仏稀釈や兵営建設などにより、現在地に遷座されたた。境内には天満宮・稲荷社のほか、地蔵堂があり十一面観音菩薩・地蔵菩薩・庚申塔などが並んでいる。 |
街道に戻ると、直ぐ先に海隣寺の坂がある。 ここは現在の市役所下で、成田街道が台地上の町へと上がる坂である。街道筋の要所として、当時は木戸が置かれており、土手・竹矢来で守られていた。 |
坂道を上り詰めると、右手に時宗の千葉山深広院海隣寺がある。 海隣寺は、千葉常胤が海から引き上げられた金色の阿弥陀如来像を祀ったのが始まりと伝えられている。境内には熊野神社の境内社のほか、大師堂がある。なお、ここ海隣寺町の地名は、この海隣寺が由来となっている。 |
佐倉藩刀剣細工所跡 | 麻賀多神社 | 佐倉藩藩校跡 | 佐倉城大手門跡 | |||
街道に戻って200mほど進んだ右手路地を下っていくと、佐倉藩刀剣細工所跡がある。 特に解説があるわけではなく、木柱標柱が建っているだけである。 |
街道に戻って250mほど先の新町T字路交差点を左折するのが街道であるが、寄り道をすべく直進して直ぐ右手に入ると、右手段上に麻賀多神社がある。麻賀多神社の創建年代は不詳であるが、今から1,050年ほど前に完成した政令集
「延喜式」 には、既に社名が記載されいる。 境内には三峯神社・稲荷神社の境内社のほか、推定樹齢800年の御神木の大イチョウがある。 |
麻賀多神社を出て更に西に進んでいくと、佐倉市民体育館前に佐倉藩藩校 「成徳書院」 跡がある。 成徳書院は、幕末に老中を務めた堀田正睦が整備した佐倉藩の藩校であり、儒学・兵学・医学・蘭学が教授された。ここには成徳書院跡碑と藩校沿革が刻まれた碑が建っている。 |
佐倉藩藩校跡の直ぐ西寄りに、佐倉城大手門跡がある。 大手門は惣曲輪の表門で、この門の西側には広小路、中下町、大下町といった武家屋敷が整備され、三の丸御殿、会所なども置かれていた。 |
佐倉城址公園 | 佐倉武家屋敷跡 | 蔵六餅本舗 | 三谷屋呉服店 | |||
佐倉城大手門跡から佐倉市立佐倉中学校の前を北西に進むと、突き当たりが佐倉城址公園である。 園内には、櫓などの建造物は残っていないが、当時から残る姥ヶ池があり、三の門跡付近に堀田正睦公像、タウンゼント・ハリス像、正岡子規句碑などがある。 |
寄り道ついでに麻賀多神社前の道を南下して路地を抜けると、佐倉武家屋敷跡がある。 写真は、旧河原家住宅であり、この先に旧但馬家住宅と旧武居家住宅があり、一番奥の旧武居家住宅に入ってみた。 |
街道に戻って、麻賀多神社手前のT字路を左折すると、右手に明治15年(1882)創業の蔵六餅本舗木村屋が建っている。 佐倉藩主堀田家には、300年前から上面に亀の甲を曝したような五彩混ざった地肌の一奇石 「蔵六石」 が伝えられている。この奇石に因んで作られたのが蔵六餅である。 |
蔵六餅本舗木村屋の隣に、明治17年(1884)に建てられた蔵造りの三谷屋呉服店がある。 三谷屋呉服店は、寛政年間(1789-1800)の創業と言われ、佐倉城下町とともに歴史を刻んできた老舗である。 |
佐倉市立美術館 | 山口家住宅 | 高札場跡 | 共同井戸 | |||
直ぐ先の変則十字路の右手に佐倉市立美術館がある。 | 佐倉市立美術館の右手の路地を入ると、街道の一本南側を並行する裏道に山口家住宅がある。 袖蔵は明治29年(1896)に創建され、店蔵は後の増築と言われる。袖蔵は意匠に優れ、正面に水切りが4段つき、入口の格子の引き戸には、敷居の傾斜により自動的に閉まるくぐり戸がある。 |
街道に戻ると、佐倉市立美術館の斜向かいにある佐倉市立美術館駐車場入口に高札場跡復元されている。 この駐車場の奥に印旛郡役所跡のイヌマキが聳えている。 |
高札場跡の斜向かいの右手路地を入ると、街道の一本南側を並行する裏道に共同井戸がある。 ここにある井戸は、江戸時代から町の人々に使用されてきたもので、深さは約20mあり、井戸の管理は組合により維持されてきた。、 |
今井家住宅 | 佐倉新町おはやし館 | 堀田正睦公墓所 | 嶺南寺 | |||
街道に戻ると左手に明治の呉服商 「駿河屋」 (今井家住)がある。現在の建物は、今井氏が「駿河屋」 の屋号で呉服商を営んだ古民家である。主屋は、明治22年(1889)~明治25年(1892)前後に建てられたと推定されている。 また、ここは江戸時代の郷宿 「油屋」 の跡地でもあり、この油屋には、桂小五郎(長州藩士)・山本覚馬(会津藩士)・清河八郎(庄内藩士)などが宿泊している。 |
山口家住宅の直ぐ先、右手に佐倉新町おはやし館がある。 ここは市民の憩いの場として郷土の文化、伝統行事、物産などの紹介や観光情報の提供を行っており、一階には江戸時代から続く麻賀多神社の祭礼で、各町内が繰り出す山車人形が展示されている。 また、庭先には高札場が復元されている。 |
街道が枡形に右に折れる手前の左手筋を入ると、右手にやや分かりづらい標柱があり、この奥に堀田正睦公の墓所がある。 墓所には、堀田正睦公のほか、正俊公・正倫公と正睦公生母など、堀田家累代の墓がある。 |
堀田正睦公墓所入口の向いに、曹洞宗の清浄山嶺南寺がある。 嶺南寺は、寛永19年(1642)に当時の信濃松本藩主であった堀田加賀守正盛の佐倉移封に伴い、松本から佐倉に移築された。 静かな佇まいの境内には、三猿が刻まれた庚申供養塔・三界万霊塔・観音菩薩像がある。 |
延覚寺 | 妙隆寺 | 枡形の先 | 教安寺 | |||
街道に戻ると右に曲がる枡形道の角奥に浄土真宗本願寺派の法輪山延覚寺がある。 延覚寺は、元和3年(1617)に僧甚正により開基されたと言われている。 境内にはひときわ目立つ鈴木巡査部長の顕彰碑がある。 |
街道に戻って枡形道を進み、直ぐ先で左に曲がる枡形道の右角の筋を入ったところに、日蓮宗の久栄山妙隆寺がある。 妙隆寺は、文明3年(1471)に本土寺第9世日意上人により開創され、当初は佐倉城の大手門付近にあったが、宝永年間(1704-10)に現在地に移転した。参道口に享保4年(1719)の南無妙法蓮華経題目碑があり、境内には瘡守(かさもり)稲荷社、浄行菩薩堂などがある。 |
街道に戻ると枡形道の先に、真直ぐな道が東に向かって延びている。 | 枡形を抜けると、直ぐ右手に浄土宗の二尊山東傳院教安寺がある。 教安寺は、寛永2年(1625)に厭誉道波上人が開山で、土井利勝が佐倉城主の時、将軍家の預り人・花井左門の妻・東傳院殿松誉春貞大姉の菩提を弔うため建立した。 境内には享保6年(1721)の金銅地蔵菩薩坐像、東傳院殿松誉春貞大姉之墓などがある。 |
石渡家住宅 | 三谷家住宅 | 妙経寺 | 妙見神社 | |||
街道に戻ると左手に石渡家住宅がある。 石渡家住宅は、「みせ」 と 「すまい」 からなり、「みせ」 は大正5年(1916)、「すまい」 は明治40年(1907)に建てられたものである。 「みせ」の外観については一部改装されているが、出桁造とし、隣家に面する東西の壁を漆喰にするなど、佐倉の町家の特徴を良く残している。 |
石渡家住宅から200mほど先に進むと、右手に三谷家住宅がある。 三谷家住宅の袖蔵は明治17年(1884)に建てられたもので、主屋もその頃には建っていたと考えられている。近代の佐倉における有力商家にふさわしく造形的に優れた建物であり、出桁造の主屋と並んで袖蔵が建つ当時の商家の構えを良く残している。 |
三谷家住宅の直ぐ先、左手に日蓮宗の長栄山妙経寺がある。 妙経寺の創建年代等は不詳であるが、境内には南無妙法蓮華経題目碑がたくさん建っている。 |
妙経寺から程なく、左手に妙見神社がある。 妙見神社の詳細は不明であるが、社殿の扁額 「妙見尊」 は、仏教における天部の一つである妙見尊星王で、北辰妙見菩薩とも呼ばれる。 |
佐倉順天堂記念館 | 釣瓶井戸 | 昌柏寺 | 酒々井町 | |||
先に進むと本町信号交差点の手前右角に佐倉順天堂記念館がある。 佐倉順天堂は、藩主堀田正睦の招きを受けた蘭医佐藤泰然が、天保14年(1843)に開いた蘭医学の塾兼診療所である。 現在は、安政5年(1858)に建てられた建物の一部が、記念館として一般公開されている。 |
佐倉順天堂記念館前の本町信号交差点を渡ると、交差点の右角に釣瓶井戸がある。 井戸自体は古いもののようであるが、脇に電動ポンプが設置されている。 いつの間にか雲が多くなってきたが、相変わらず気温は高く水分補給は必要である。 |
300mほど先に進むと、右手に日蓮宗の華林山昌柏寺がある。 昌柏寺の創建年代等は不詳であり、門扉が閉まっていて境内に入れなかったが、山門前に 「華林山文庫求法講院学室」 と刻まれた標柱が建っている。 |
昌柏寺から200mほど先の左手にこんもりとした林が見える辺りから、印旛郡酒々井町へ入っていく。 |
庚申塔 | 妙胤寺 | 白山神社 | 清光寺 | |||
酒々井町に入り、左手の林の下に石造物が見えるので、先に行って回り込んでみると、享保15年(1730)の一面六臂の青面金剛の庚申塔と寛政10年(1798)の石燈籠である。 | 直ぐ先のやや上り坂になったY字路信号交差点を左に上っていくと、左手に南無妙法蓮華経題目碑があり、この奥に日蓮宗の常勝山妙胤寺がある。妙胤寺は、西安元年(1299)の創建で、当初、真言宗であったが、後に日蓮宗に改宗し、佐倉城主千葉勝胤の帰依を受け、山号・寺号は勝胤の一字を取ったものとなっている。境内には浄行菩薩・馬頭観音・子育地蔵尊などがある。 | 街道に戻って200mほど進むと、左手に白山神社がある。 鳥居はあるが社殿が見えず、鳥居の奥の社務所の裏に回り込むと、本殿と境内社が3っつ並んでいる。 白山神社に隣接して正一位玉光大神がある。いづれも創建年代等は不詳である。 |
先に進むと右手に浄土宗の亀澤山孤峰院清光寺がある。 清光寺は、弘治2年(1556)に月峰上人により開山したと伝えられている。江戸時代には、二世の峰誉無算和尚が、徳川家康の父広忠の分骨を安置供養したことから、将軍の命により、佐倉城主が廟所の管理をしていたという。門扉は閉ざされていたため境内に入ることが出来なかった。 |
大師堂 | 上本佐倉 | 大鷲神社 | 八坂神社 | |||
清光寺の先の変則十字路の右角に大師堂があり、一体の弘法大師堂が安置されている。 | 程なく街道は、佐倉の麻賀多神社前で分かれた国道296号線に合流し、直ぐ左手の県道137号線へ入り、再び国道296号線と分かれていく。 | 県道137号線に入ると、直ぐ左手に大鷲神社がある。 大鷲神社の創建年代等は不詳であるが、社殿には石祠と子安観音が祀られ、境内には水神社の石祠がある。 |
街道を300mほど北上すると、右手段上に八坂神社がある。 八坂神社の創建年代等は不詳であるが、境内には稲荷神社・道祖神などの石祠、寛政13年(180)の子安観音のほか、御神木の切株などがある。 |
地蔵院 | 野馬会所跡 | 勝蔵院 | 酒の井の碑 | |||
八坂神社の先の右手路地を入っていくと、左手奥に地蔵院の御堂がある。 御堂には、子育地蔵尊など3体の地蔵尊が祀られており、御堂脇には風化の激しい如意輪観音がある。 |
街道に戻ると右手に野馬会所跡がある。 ここは佐倉七牧の野馬会所があったところで、この島田長右衛門家は、江戸時代に幕府野馬御用を務めた広い敷地を有する家で、かつては宅地裏に野馬会所と野馬払い場が続いていた。 |
直ぐ先の信号T字路交差点を越えると、左手筋の突き当りに真言宗の処宝山勝蔵院長現寺がある。勝蔵院は、佐倉藩主戸田能登守忠真が、元禄12年(1699)に東台不動山にあった不動堂を移したのが始まりと言われている。山門は仁王門であり、本尊は佐倉藩主の寄進とも伝えられている木造不動明王坐像である。境内には大師堂のほか、文化元年(1804)の手水石・嘉永6年(1853)の狛犬などの石造物がある。 | 街道に戻って150mほど進むと、左手路地角に 「酒の井の碑」 と記された標識が建っており、この路地を50~60mほど入ると 「酒の井碑」 がある。酒々井という地名の由来になった 「酒の井」 の伝説に因んで建てられたもので、碑の近くに井戸が復元されている。 |
麻賀多神社 | 下り松三山碑 | 印旛沼方面 | JR成田線酒々井駅 | |||
街道にもって進むと、程なく左手に麻賀多神社がある。麻賀多神社は、印波国造一族の守護神として祀られたと言われ、印旛沼の東岸から南岸における台地に分布する麻賀多十八社のうちの一社である。 境内には、粟島神社のほか、水神社・大杉神社・白旗神社・妙見神社・天神社・山王社・愛宕神社などの石祠がある。 |
麻賀多神社を過ぎると街道は次第に下り坂となっていくが、かつてこの辺りの坂を 「下り松」 と呼んで成田街道の難所とされていた。 坂の途中左手に、文政10年(1827)の出羽三山碑(羽黒山・月山・湯殿山)と馬頭観音2基・文政8年(1825)の庚申塔が建っている。 |
下り松三山碑を過ぎると、坂道の左手に印旛沼方面遠望できるところがある。 | 坂道を下っていくと宗吾入口信号交差点である。気温が高くこれ以上は歩けないので、ここ終了し、最寄りのJR成田線の酒々井駅に出て帰宅することとした。 |