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旧成田街道  (酒々井~成田山新勝寺


平成30年8月15日(水)   ☀|☁    酒々井~成田山新勝寺   7.4㎞
前回(H30.7.18)以降、記録的な暑さで7月は歩くことが出来ず、8月に入って台風が次々と発生し不安定な気象状態となり先に進めないでいたが、本日だけは雨の予報もないので、急遽出掛けることとした。わずかな距離なので午前中に成田山新勝寺まで行けると思われる。

京成酒々井駅 築山 道標 大師堂
前回の帰路では、JR酒々井駅を利用したが、今回は京成本線を利用し、京成酒々井駅で降りて街道へ出ることとした。 京成酒々井駅から南に5分ほど歩き、前回終了した宗吾入口交差点に出ると、左手に木々が茂る築山がある。
この筑山は、通称 「桜山」 と言われ、資産家であった旧家木内常右衛門邸内であった。築山の上には、明治天皇が三里塚への御幸の際、往復で4回も築山へ立ち寄られて景色を楽しまれたという記念碑が建っている。
街道に戻ると、直ぐ先の信号十字路角に道標が建っている。
右に進むとJR酒々井駅、左に進むと京成酒々井駅であり、街道は横断歩道を渡った左手筋を入っていく。
横断歩道を渡って左手筋の旧道を進むと、T字路突き当り手前左手の半鐘櫓の下に大師堂があり、その右側に地蔵堂がある。
大師堂には、弘法大師像のほか、文政9年(1826)の供養塔が安置され、大師堂の脇に明治34年の富士登山参拾三度大願成就碑が建っている。
地蔵堂の地蔵尊には、元禄2年(1689)・延享2年(1745)・宝暦13年(1763)・明和7年(1770)などの年代が刻まれている。

道標 道標 道標 成田7㎞標識
T字路の突き当りには、明治44年(1911)の道標 「此方酒々井停車場道」 と年代不明の道標 「二王ミち」 が建っている。 T字路を右折して水路を渡ると、その先のT字路の突き当りに年代不明の道標 「←成田佐原道・宗吾安喰道→」 が建っている。 T字路を右折して50mほど進むと、右手の路地脇に年代不明の三角柱の道標 「←成田佐原道・佐倉千葉道→」 が建っている。 道標から200mほど先で国道51号線に合流すると、「水戸107㎞・鹿嶋47㎞・成田7㎞」 の道路標識がある。

道標 旧道口 成田山道標 竹林の坂道
国道51号線に合流して150mほど進むと、左手の路地脇に建つ電柱に寄りかかるようにして寛政2年(1790)の道標 「南さくら道」 が建っている。 道標の向いの筋が旧道であり、ここから国道51号線と分かれていく。
この先はやや上り坂の道となる。
先に進むと左手斜面に倒れるように、明治27年(1894)の成田山道標が建っている。
この道標は明治27年(1894)に成田山信集講の岩田長兵衛が建てた案内道標5基のうちの一つである。あと4か所は船橋市滝台、八千代市萱田町、佐倉市井野・佐倉市上座にある。
成田山道標の先は坂道が急になり、竹林に覆われた道となる。

馬頭観音 伊篠の松並木跡 名残松 護摩木山供養碑
坂道の途中左手の段上に観音堂があり、周囲にたくさんの馬頭観音碑と欠けた道標が1基あり、傍らに子安観音を祀った祠や石祠がある。この馬頭観音は江戸時代に馬を使った運送業者たちによって祀られたものであり、道標は天保10年(1839)の成田山への道標で、佐倉市井野にある鈴木金兵衛の道標と似て俳句が彫られている。 坂道を上り詰めると、左手を走る国道51号線との間に成田道伊篠の松並木跡がある。
ここには伊篠の松並木解説のほか、木柱標柱と宗吾道道標が建っている。
昭和60年11月に最後の二本が枯れ、史跡としての名称だけが残った道ではあるが、街道脇に立つ松が往時の名残を感じさせている。 先に進むと、左手の木々の間に護摩木山供養碑が3基ほど建っており、傍らに成田山道標が2基建っている。
護摩木山は、成田不動尊の護摩を焚くための材木を用立てるため、信者が寄附した土地であり、ここにある石碑は、これを記念して建てられたものである。

護摩木山供養碑 成田道伊篠の松並木碑 旧道口 護摩木山供養碑
先に進んで街道が左にカーブするところに、明治28年(1895)の大きな成田山永代護摩木山供養碑が建っている。 街道が国道51号線と合流するところに、千葉県指定成田道伊篠の松並木碑が建っている。 国道51号線に合流して間もなく、左手に旧道が残っている。 旧道を進んでいくと左手に二つの石碑が並んでおり、左は成田山永代護摩木山供養碑で、右は不動尊碑である。

地蔵菩薩 国道51号線合流 分岐 和算家飯島武雄の墓
成田山護摩木供養碑の先で秋を感じさせる毬栗(いがぐり)が旧道にたくさん落ちており、その先の谷津の田園地帯の街道脇に、文政4年(1821)の地蔵菩薩が建っている。 地蔵菩薩から150mほど先で国道51号線に合流する。
この辺りは車の往来がそれほど多くは無く、比較的歩きやすい道である。
合流して600mほど先の公津の杜入口信号交差点の手前で、印旛郡酒々井町から成田市飯仲に入り、その先のY字路で国道51号線と分かれ、国道409号線へ入っていく。
この分岐には木柱道標があり、「←飯仲古墳群2.2㎞・不動院1㎞→」 と記されている。
先に進んで左から回り込んできた国道51号線を横切り200mほど進むと、右手に和算家飯島武雄の墓がある。
飯島武雄は、安永3年(1774)下総金江津(茨城県)に生まれ、盲目であったが、中西流の利根軒一に学び、印旛郡飯田新田で和算を教え、門下生は千人を超えたという。

一本松跡碑 成木県道踏切 京成本線跨線橋 不動尊旧跡
直ぐ先で国道464号線を横切り200mほど進むと、T字路左角に一本松跡碑が建っている。
かつて、成田山参道入口のこの地に一本の松の大木がそびえており、この松を見た旅人はやっと成田に着いたと安堵したという。
傍らには2基の石碑があり、一つは馬頭観音で宗吾霊神道と刻まれた道標であり、もう一つは風化が激しいが宗吾霊神と刻まれているようである。
この通りは一本松通と言われ、直ぐ先でJR成田線の成木県道踏切を渡っていく。 成木県道踏切を渡って400mほど進むと、京成本線に架かる跨線橋があり、併設された阿利耶側道橋で渡っていく。 京成本線跨線橋の渡り詰め左側に不動尊旧跡がある。ここは安政5年(1858)に成田山新勝寺の新本堂(現釈迦堂)が完成した時、その入仏供養の行列が出発した場所である。本来なら並木町の不動塚から出発するはずが、不動塚があまりに遠いので、この地に不動明王を仮安置し、ここから本堂に出発したものである。
ここには弘法大師像・地蔵菩薩像・道祖神・護摩木山供養碑などがある。

大師堂 花崎町山車蔵 JR成田駅 権現神社
一本松通を150mほど先に進むと、左手下から回り込んでくる道との合流地点、左角に大師堂があり、1体の弘法大師像が安置されている 直ぐ先右手に花崎町山車蔵がある。
この山車は、毎年約45万人の見物客で賑わう成田祇園祭に使用されるもので、祇園祭では見事な彫刻や装飾で彩られた10台の山車・屋台と御輿1台が繰り出し、7月の3日間に渡り成田山表参道やその周辺一帯を巡行する。
先に進むと左手のJR成田駅前を通り、その先に成田山新勝寺への参道が延びている。
街道の右手は、京成本線の京成成田駅である。
JR成田駅前ロータリーにある交番の裏に権現神社がある。境内は立入禁止となっており中に入れないが、柵越しに権現神社社殿・弘法大師像・馬頭観世音碑・宝篋印塔のほか、たくさんの石碑が見えている。

大師堂 参道 薬師堂 仲町・幸町界隈
街道に戻って参道に入ると、直ぐ左手に大師堂がある。
門柱には 「安心立命」 「轉迷開悟」 の文字が刻まれ、本堂に弘法大師像と稚児大師像が祀られ、境内の小さな大師堂には厨子の中に弘法大師像が祀られている。
大師堂の先は、北に向かって真直ぐ参道が延びている。
お盆期間中で、午前中ということもあり、観光客はまばらである。歩道上には干支の石像が設置されている。
先に進むとY字路の手前左手に薬師堂がある。この薬師堂は、明暦元年(1655)に建立された成田山旧本堂であり、成田山に現存する最古の御堂である。
過去二度の移転で成田山境内を離れ、安政2年(1855)に現在の場所に移築された。
薬師堂の前のY字路を右に入ると、老舗旅館やウナギ料理店が建ち並ぶ、江戸時代から変わらぬ仲町・幸町界隈へ進んでいく。
Y字路入口の右手には、俳人三橋鷹女の像が建っている。

成田山新勝寺 稲荷神社 成田山公園
成田街道の終点は、真言宗智山派大本山の成田山新勝寺である。新勝寺は、寛朝大僧正が開山したものであり、天慶2年(939)朝廷と敵対する平将門の乱が勃発しとき、寛朝大僧正はこの戦乱が鎮まるよう不動明王をこの地に奉安し、護摩を焚いて祈願したところ、祈願最後の日に平将門が敗北して戦乱が治まったという。その後、市川團十郎が成田不動に帰依し成田屋の屋号を名乗ったことなどから、成田不動は庶民の信仰を集めていった。 新勝寺の西側に隣接して稲荷神社がある。
稲荷神社は、江戸時代に成田山を篤く信仰した佐倉藩主稲葉丹後守が、宝永年間に寄進した茶枳尼天尊を祀っている。
古来より出世稲荷大明神と称されており、境内にはたくさんの稲荷社・狛狐などがある。
新勝寺本堂の右手に成田山公園の入口があり、園内は東京ドーム3個半という広大な敷地を有する。
園内にある3つの池を中心に起伏のある造りになっているため、いくつかのコースを組み合わせてジョギングなどが楽しめる。また、園内各所に松尾芭蕉句碑・高浜虚子句碑などの石碑がある。

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