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旧成田街道   (船橋~勝田台


平成30年7月17日(火)   ☀|☁    船橋~勝田台    16.0㎞
昨日は、気温33℃とかなり暑い日和だったが、今日も33℃くらいまで上がるのではとの予報である。暑さ対策のグッズは5年前の甲州街道(山梨県)の40.7℃以降、ネックタオル、冷温効果のあるタオル、ひさしの大きな帽子、塩分補給飴など、いろいろ試してきており、今回もこれらと凍ったペットボトルを持って出発である。
船橋(宿)からは12㎞先に大和田宿がある。

西船橋駅 浅間神社 龍神社 分岐
午前7時15分の西船橋駅前ロータリーは、自家用車・タクシーが行列を作っている。 街道に出て武蔵野線の高架をくぐり、600mほど先に進むと、左手に浅間神社がある。
浅間神社は、標高22mの高台にあり、その昔、地元山野の村人が富士山本宮浅間神社を氏神として勧請して祀ったことに始まるという。
浅間神社は、鎌倉時代後期から室町時代前期には存立していたと推定されている。石段上の参道は約200mほどあり、境内には諏訪神社・稲荷神社・妙見神社などの石祠が並んでいる。
街道に戻って陸橋上信号交差点を渡り、170~180mほど先の右手一方通行路を入っていくと、右手に龍神社がある。
龍神社の創建年代等は不詳であるが、西海神の鎮守で大綿津見命を祀り、仏名を娑竭羅(しゃから)龍王という。境内にある小さな池には、弘法大師の石芋や片葉の蘆(あし)の伝説が残されている。
先に進むとY字路交差点があり、国道14号線は右に進み、旧道は左の道を進んでいく。
このY字路の左脇に小社があり、道祖神と思われる石祠が安置されている。

大覚院 入日神社 地下通路 観音堂
Y字路を左に進むと、直ぐ左手に真言宗豊山派の龍王山海蔵寺大覚院がある。
大覚院は、天正17年(1589)秀巌和尚の創建と伝えられ、龍神社の別当であった。この寺は赤門があることで有名であるが、現在、寺地一帯は改修中で、本堂は足場が組まれた状態で堂宇は確認できなかった。
境内には、六地蔵尊が安置された地蔵堂のほか、大師堂がある。
大覚院の先で、街道には総武本殿が横切るため、車道は跨線橋となるが、人は高架下の地下道で渡ることとなる。この地下道へ向かう途中の右手に入日神社の社標があり、入っていくと右手に入日神社がある。入日神社は、景行天皇40年(110)に日本武尊が東征の折、この地に上陸したところで、後に村人によって日本武尊の遺徳を偲び、社を建立したのが始まりと伝えられている。 街道に戻ると、総武本線の下を地下通路で越えていく。 総武線を越えると、直ぐ先に斜め右に向かう道があり、50mほど入った左手に観音堂がある。
この観音堂は、海神念仏堂の一角にあり、元禄14年(1701)に江戸神田鍋町の富商である高麗屋佐次右衛門が建立したものである。観音堂の前には、元禄7年(1694)の道標があり、「右是よりいち川」、「左行とくみち」と刻まれている。また観音堂へ向かう路地脇には、観音菩薩・地蔵菩薩などの石造物が並んでいる。

地蔵院 海神稲荷神社 日枝神社 西向地蔵尊
街道に戻ると右手に六地蔵尊が並んだ真言宗豊山派の勝軍山蓮華寺地蔵院がある。
地蔵院は、天正3年(1573)法印勝誉の創建と言われ、当時も勝軍山地蔵院と称したという。その後、幾度か再建され、現在の地蔵院は、昭和59年(1984)に弘法大師1150年遠忌事業として、鉄筋コンクリート造に再建された。境内には宝篋印塔・五重塔、地蔵菩薩・如意輪観音などの石造物がある。
地蔵院の東側にある一方通行路を南に入っていくと、左手に海神稲荷神社がある。
海神稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、元禄15年(1702)の海神村御検地水帳によると、元は彦左衛門家の屋敷神であったが、霊験があったので慶安年間(1648-51)に地蔵院持ちになったという。
街道に戻って先に進むと、青少年センター前交差点の左手に日枝神社がある。
日枝神社の創建年代等は不詳であるが、昔から山王様と呼ばれ、地元の人々には産土神であり、信仰の中心であった。境内には文政3年(1820)の手水石、嘉永6年(1853)の常夜燈のほか、稲荷神社・龍神社・水神社などの境内社がある。
青少年センター前交差点の先のT字路右手に西向地蔵尊がある。
ここは旧船橋宿の入口で、かつては罪人の仕置場(処刑場)があったところで、地蔵尊・阿弥陀如来像・聖観音菩薩像が全て西を向いていることから西向地蔵尊と呼ばれている。

稲荷神社案内碑 稲荷神社 猿田彦神社案内碑 馬頭観音案内碑
先に進むと、和食 「いなりや」 の前の歩道上に石碑があり、近くにある稲荷神社の案内が刻まれている。
この稲荷神社は、元は地元のある家が伏見から勧請した屋敷神であったが、霊験あらたかなので、地区の守り神として信仰されるようになったという。
和食 「いなりや」 の脇の路地を入ると、狭い路地脇に稲荷神社がある。
歩道上にあった石碑によると、この路地は稲荷横丁と呼ばれている。
稲荷神社の創建年代は、寛政から享和にかけてのようであるが、詳細は不明であるが、境内には、三猿が刻まれた享和2年(1802)の庚申塔がある。
続いて猿田彦神社の案内碑があり、碑に刻まれた地図をたよりに路地を入っていくと、狭い路地脇に猿田彦神社がある。
碑によると、この小道は古い時代から残る道で、悪霊が入ってこないように道の神様として祀られたものであろうとのことである。
続いて馬頭観音案内碑があり、碑に刻まれた地図のとおりに船橋市中央図書館の脇の路地を入っていくと、一本北側の路地脇に道祖神社と三峰神社があり、その境内に安永3年(1774)の馬頭観音が安置されている。

明治天皇聖跡 広瀬直船堂 厳島神社案内碑 御蔵稲荷神社
街道に戻ると、右手の千葉銀行の前に明治天皇船橋行在所跡がある。
ここは明治天皇が、陸軍の演習などをご覧になるために泊まられた旅館桜屋・山口丈吉宅跡である。千葉銀行船橋支店の一角に明治天皇船橋行在所跡碑が設置され、傍らに解説板が建っている。
街道を先に進むと、ビルに囲まれて広瀬直船堂の赴きある店舗が建っている。
この家は、大正7年(1918)に建造された木造二階建切妻瓦葺の和菓子屋である。この向かいには江戸時代からの老舗森田呉服店があり、船橋の地名を染め抜いた 「ふなばし地名手ぬぐい」 が販売されている。
森田呉服店の前の歩道上に厳島神社案内碑が建っており、碑の前に厳島神社がある。
厳島神社の創建年代は不詳であるが、安芸の宮島の厳島神社を勧請して創建されたもので、市杵島姫命・多気津姫命・田心姫命を祀っており、地元では弁天様と呼ばれて親しまれている。
厳島神社から30mほど先の本町4丁目信号交差点を左折すると、突き当りに御蔵稲荷神社がある。この辺りは、徳川家康が船橋御殿を建てたところで、二代秀忠、三代家光が度々宿泊している。その後、船橋御殿は廃されて、跡地に飢饉に備えた御蔵が建てられ、延宝・享保・天明の飢饉でも餓死者は出なかった。しかし、寛政3年に御蔵は出水のため流失した。このため地元住民が感謝を込めて稲荷祠を建立したのが、この御蔵稲荷神社の始まりである。

船橋御殿跡附東照宮 海老川橋 意富比神社 西福寺
御蔵稲荷神社前から左に2本目の路地を右に入っていくと、突き当りに船橋御殿跡附東照宮がある。
ここは徳川家康が建立した船橋御殿跡で、家康は元和元年(1615)11月に宿泊している。
その後、御殿は廃止され、跡地は大神宮宮司の富氏に与えられ、富氏は御殿の中心であったと言われる場所に東照宮を建立した。
街道に戻ると、本町4丁目交差点の直ぐ先に海老川橋がある。
海老川は、船橋市中央部を流れる河川で、日本武尊が東征の際に、地元民が小舟を浮かべて橋を渡したという 「船橋」 の地名の由来になった川である。橋の中央部は、五大力船の先端部が象られ、船橋市の地名の由来を記した碑文と泉重千代氏の手形が設置されている。
先に進むと変則四差路の中央高台に、通称 「船橋大神宮」 と呼ばれる、意富比(おおひ)神社がある。
意富比神社は、景行天皇40年(110)、日本武尊が東征の際、当地で東国平定の成就を祈願したのが始まりと伝えられている。境内はかなり広く数多くの境内社があり、
境内奥の小高い丘(標高27m)に夜間に沿岸を航海する船の目安となる 「船橋大神宮灯明台」 が建っている。
街道に戻って意富比神社の北側の坂道を進むと、左手に真言宗豊山派の船橋山清浄心院西福寺がある。
西福寺の創建年代等は不詳であるが、江渡時代は近隣に末寺を擁する寺であったという。
境内には、大師堂、新四国四十八所霊石のほか、元禄9年(1696)の青面金剛の庚申塔、文政11年(1828)の庚申塔などがある。

薬師堂 熊野神社 了源寺 日枝神社
西福寺から100mほど進んだ左手の路地を入ると、突き当りに薬師堂がある。
薬師堂の詳細は不詳であるが、堂前には子供に乳を与えている子安観音(観音菩薩半跏像)、弘法大師像などがある。
薬師堂の前を右に曲がると、宮本四和自治会館の前に鳥居があり、自治会館内の奥に熊野神社がある。
熊野神社の創建年代等は不詳であるが、神社境内の空きスペースに自治会館が建てられたものかと思われる。
街道に戻って80~90mほど先の右手路地を入ると、Y字路の中央に浄土真宗本願寺派の光雲山伝翁院了源寺がある。了源寺は、永禄年間(1558-66)に伝翁が開基となり、北条氏康より150石の寄進を受け一宇を建立したのが始まりと言われている。境内にある鐘楼はもともと幕府が試射用の大砲を設置する台座跡だったとう。 街道に戻って先に進み、肉のスズキ本店を過ぎると、左手の高台に日枝神社がある。
日枝神社の創建年代等は不詳であるが、参道は長く整備されており、境内には文化4年(1807)手水石、慶應3年(1867)の狛犬のほか、道祖神・子安観音などの石造物がある。

馬頭観音 県道8号線高架 地蔵菩薩 道標
右手に千葉県立船橋高等学校を見て、東船橋駅入口信号を過ぎると、左手の大成輪業(有)の向いのイチョウの木の間に馬頭観音が祀られた祠がある。
祠には文化4年(1807)・明治30年(1897)・昭和7年(1932)の三基の馬頭観音が安置されている。
直ぐ先で県道8号線の高架が横切っており、この交差点の左角の祠に石造物が4基安置されている。
石造物は庚申塔であるが、かなり風化が進んでいて表面が確認できないものもある。
県道8号線の高架をくぐると、直ぐ右手の榧の大木の下に祠があり、地蔵菩薩が祀られている。
この地蔵菩薩は、安政年間(1854-59)に西福寺の住職が、疫病対策のために建てたものと云われている。
地蔵菩薩から400mほど先の成田街道入口交差点で、街道は左に曲がっていくが、この入口角に道標が建っている。
ここは成田街道と東金御成街道の分岐点であり、明治12年(1879)に建てられた輪宝付道標である。

道標・庚申塔 新京成線 道入庵 御嶽神社
道標を左に曲がって間もなく左手に祠があり、不動明王像が乗った道標1基と、5基の庚申塔が安置されている。 道標・庚申塔の先で総武本線を跨線橋で渡り、どんどん街道を進んで新京成線の踏切を渡っていく。
新京成線は、新京成津田沼駅から松戸駅までの26.5㎞を結ぶ鉄道路線である。
更に進み、前原駅入口信号を過ぎると、次の前原東五丁目信号の左手に道入庵がある。
道入庵の創建年代等は不詳であるが、境内にはこの地 「地蔵窪」 の名前の由来となった地蔵尊や大師堂のほか、たくさんの馬頭観音などの石造物が並んで安置されている。
道入庵から程なく、右手の船橋市立二宮小学校の手前に御嶽神社がある。
御嶽神社は、延宝元年(1673)大和国から奉還した蔵王権現立像を前原開拓地の守り神としたのが始まりと伝えられている。長い参道には出羽三山碑(羽黒山神社・月山神社・湯殿山神社)が数基並び、境内には妙正大明神・金比羅大権現・大六天などの石祠がたくさん並んでいる。

供養塔・馬頭観音 道路元標 長屋門 道祖神
御嶽神社から200mほど進んだ左手路地の入口両脇に石造物がある。
左側は辛うじて読める字からから判断して法界供養塔であり、右側は寛政5年(1793)の馬頭観音像ほか3基の馬頭観音碑が建っている。
船橋市二宮出張所前の交差点角に、二宮町道路元標が建っている。 二宮町道路元標から200mほど先の 「滝台」 バス停前に200年以上経つという長屋門を構えた旧家がある。 更に長屋門から250mほど進むと、和菓子の宗家源吉兆庵の二軒隣の民家前に安永8年(1779)の道祖神が建っている。

神明神社 庚申塔 不動堂 船橋市郷土資料館
街道を先に進むと、右手の路地角に神明神社入口と刻まれた社標が建っており、この路地を南に100mほど入ると、右手の林の中に神明神社がある。
神明神社は、宝暦年間(1751-64)頃に創建されたと言われている。社殿は一段高いところにあり、境内には出羽三山碑(羽黒山神社・月山神社・湯殿山神社)、三仙元宮碑、御嶽山大権現碑などがある。
街道に戻って先に進み、船橋市消防局薬円台出張所を過ぎると、左手に庚申塔が4基並んでいる。
4基の内、寛延3年(1750)の庚申塔は、邪鬼を踏みつけた一面六臂の青面金剛など良好な状態で残っている。
先に進むと二宮神社入口信号に架かる横断歩道橋の左手奥に不動堂があり、傍らに大師堂がある
不動堂の創建年代等は不詳であるが、明治18年(1885)に焼失し、明治26年(1893)に再建され、その後、明治44年(1911)に再び焼失し、現在の御堂は大正2年(1913)に再建された。
直ぐ先左手に船橋市郷土資料館があり、前庭にD51型蒸気機関車(デゴイチ)が展示されている。
その奥は薬円台公園となっており、一角に明治天皇駐蹕之処碑が建っている。
碑文には、明治天皇から習志野の地名を賜った由来が記されている。

習志野演習場 地蔵菩薩 道標 八幡神社
船橋市郷土資料館の先は、航空自衛隊第一空挺団の施設があり、その先に陸上自衛隊の習志野演習場が続いている。
街道はしばらくこの習志野演習場に沿って進んでいく。
習志野演習場が終わるところに信号交差点があり、この交差点左手にある 「さくら八幡公園」 の前に地蔵菩薩が建っている。
この地蔵菩薩は、この付近で交通事故により亡くなられた方を供養するために建てられたもののようである。
さくら八幡公園の直ぐ先の新木戸交差点にあるセルフガソリンスタンドの前に、血流地蔵道道標が建っている。
この道標は、享和3年(1803)に建てられたもので、貞福寺の本尊とされた 「血流地蔵」 を示す道標である。
この道標の道路を挟んだ向かい側に 「成田山」 と刻まれた道標があったが、見落としてしまった。
先に進むとT字路信号の左手に八幡神社がある。八幡神社の創建年代等は不詳であるが、境内にはたくさんの子安観音、御嶽神社・金比羅神社の石祠や石碑などがある。

神明社 道標 直線の道 八幡神社
先に進んで、八千代緑が丘駅方面へ向かう公園都市通りを渡ると、左手段上に神明社がある。神明社の創建年代等は不詳であるが、鳥居の横の境内地には、たくさんの出羽三山碑(羽黒山神社・月山神社・湯殿山神社)や馬頭観音・庚申塔などが建っている。 先に進むと工業団地入口交差点の左角に道標が建っている。
この道標は、「おたきさん道」 と刻まれた慶應元年(1865)のもので、船橋市金杉にある御瀧不動尊(金蔵寺)への道を示している。
金蔵寺は、真言宗豊山派の寺院で山号を御瀧山と称し、吉橋大師八十八ヶ所巡りの第581番目札所となっている。
おたきさん道道標の先は、単調な直線の道が続いている。 先に進むと左手の 「おうちDEPO西八千代店」 の前で、街道は斜め右に折れていく。右に折れて300mほど進んだ左手路地角に弘法大師像の石柱があり、この路地(旧参道)を入っていくと、道路を渡った先に八幡神社がある。八幡神社の創建年代等は不詳であるが、明治41年(1908)に社殿を再建し、境内には神明社・古峯神社・御嶽社・天神社・金比羅社などの石祠がある。参道途中の大和田新田下区公会堂には大師堂・不動堂が並んでいる。

石造物群 稲荷神社 道祖神社 無縁法界塔
八幡神社参道口から100mほど先の左手の段上に石造物群がある。
ここには頌徳碑・大日如来像を除けば、そのほとんどが女人講と刻まれた子安観音像の十九夜塔である。
大和田新田交差点を越えて、左手の 「いしい眼科」 の手前路地を入ると、突き当りに稲荷神社がある。
稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、狭い境内にはケヤキの大木が聳え、その根元に稲荷神社社殿がある。
街道に戻ると、100mほど先の庚塚(かのえづか)バス停の前に道祖神社がある。
道祖神社の創建年代等は不詳であるが、境内には覆屋に2基、外に1基の道祖神石祠が祀られている。
直ぐ先の市役所入口交差点を渡ると、左手の手打ちそばと懐石料理の 「さわ田茶家」 の前に、小さな文政元年(1818)の無縁法界塔が建っている。

長妙寺 円光院 明治天皇碑 道標
無縁法界塔から200mほど先の左手に、日蓮宗の天受山長妙寺がある。
長妙寺は、寛永3年(1626)河野栄通によって創建されたと言われ、境内には八千代市で生まれ、江戸本郷の八百屋徳兵衛の養子となった 「お七」 (八百屋お七) の墓がある。お七は天和3年(1683)に火あぶりの極刑に処せられ、その母がお七の遺髪を受け取り、ここに埋葬した。
長妙寺の街道を挟んだ向かい側に、真言宗豊山派の地蔵山円光院がある。
円光院は、鎌倉時代に現在地より東へ約1㎞のところにあり羅漢寺と称したが、慶長3年(1598)に、この地に移転し円光院と改めたという。境内には観音堂・大師堂のほか、明治・大正期の子安観音が多数並んでいる。
街道を進むと左手の東京東信用金庫八千代支店の手前に、明治天皇行在所之処碑が
建っている。
ここは大和田宿の本陣があったところで、明治期には習志野陸軍操車場が置かれ、明治天皇は、明治6年(1873)に大和田原で行われた近衛兵の演習を閲兵するため立ち寄った。
明治天皇碑から70~80mほど先の左路地角に道標が建っている。
この道標は、天保4年(1833)のもので、「可やた山 いつ奈大権現道」、「是より十二丁 別當長福寺」 と刻まれている。
「可やた山」 は、萱田山長福寺を指し、「いつ奈大権現」 は、ここより2㎞ほど北にある飯縄神社を指している。

薬師寺 時平神社 大和橋 皇産霊神社
道標から200mほど進むと、右手に真言宗豊山派の薬師寺がある。
薬師寺の創建年代等は不詳であるが、境内には大師堂・不動堂のほか、出羽三山碑(羽黒山神社・月山神社・湯殿山神社)、子安観音・疱瘡神石祠などの石造物がたくさんある。
薬師寺の先は花見川に向かって下り坂となり、左手の高台に時平神社がある。
時平神社は八千代市に四つあり、いずれも左大臣藤原時平を祀ってあり、下総三山の七年祭りにも関わりが深い。この萱田町にある時平神社は、元和元年(1615)に創建しているが、由緒は不明である。社殿は小ぶりであるが立派なものであり、境内にはケヤキやクスノキなどの大木が聳え、境内社が二つある。
時平神社の先を更に下って行くと、花見川に架かる大和橋がある。
花見川は、大和橋の上流にある大和田機場より下流を呼び、大和田機場より上流は新川と呼ばれる疎水路部分である。
大和橋を渡ると左手に皇産霊(みむすび)神社がある。
あまり見かけない神社であるが、古事記などが伝える天地造化の神(高皇産巣日神・神産巣日神)を祀る神社である。

国道16号線高架 白籏神社 長屋門 八坂神社
皇産霊神社の先は、緩やかに左に曲がる坂道で、正面に国道16号線の高架が横切っている。 国道16号線の高架下は下市場交差点であり、この左手に白籏神社がある。
白籏神社の創建年代等は不詳であるが、境内には大師堂・小社のほか、子安観音・庚申塔・馬頭観音などの石造物がある。
国道16号線の高架を過ぎると、直ぐ左手に長屋門を構えた旧家がある。 長屋門から170~180mほど先の信号交差点の右角に八坂神社がある。
八坂神社の創建年代等は不詳であるが、狭い境内には道祖神社・金比羅大権現の境内社のほか、明治以降の子安観音・大正6年の馬頭観音・重さ105㎏の力石などの石造物がある。

稲荷神社 京成勝田台駅
八坂神社前の信号交差点を渡ると、直ぐ右手の段上に稲荷神社がある。
稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、鳥居の先に社務所があり、その裏に隠れるように稲荷神社社殿が建っている。境内には、大師堂のほか、子安観音・庚申塔などの石造物がある。
稲荷神社から500mほど先の信号交差点の右手が京成勝田台駅である。
本日はここで終了し、帰宅の途に就いた。

前へ   新宿追分~船橋 次へ   勝田台~酒々井