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中山道   (石山~京都三条)

石山から京都三条大橋までは約17㎞程で一日で十分行ける距離であるが、今日は大津までの約7㎞を進んで一旦東京へ帰ることとし、その先は改めて京都の紅葉時期に合わせて三条大橋を目指すこととする。

平成27年11月5日(木) ☀  石山~大津  7.0㎞
前日は瀬田に宿を取ったため石山までJR東海道本線で一駅進み、石山駅前の松原町西交差点からスタートである。昼頃には大津に到着し、大津から京都へ出て上京する予定である。

JR石山駅 地蔵堂 今井兼平の墓 地蔵堂
JR石山駅へ降り立つ頃日の出を迎えた。 松原町西交差点から東海道本線の高架下を潜った直ぐ先の横断歩道右手の路地に地蔵堂がある。
地蔵堂には綺麗に色付けされた地蔵尊と自然石の地蔵尊が安置されている。
地蔵堂の直ぐ先で街道を横断して流れる盛越川の脇に今井兼平の墓標識が建っている。街道から石山駅前を通り500m程入ると盛越川沿いに今井兼平の墓がある。今井兼平は木曽義仲の腹心の武将であり、義経軍に敗れ討ち死にした義仲の後を追って、口に刀を含んで馬から飛び降りて自害した。ここにある墓碑は篠津川の上流の墨黒谷から寛文6年(1666)に移設したものである。 粟津中学校を過ぎると晴嵐交差点角に地蔵堂がある。
地蔵堂には目鼻を描かれた一体の地蔵尊が安置されている。

膳所城勢多口総門跡碑 石山坂本線踏切 若宮八幡神社 妙福寺
街道が左に枡形状に曲がる右手角に膳所城(ぜぜじょう)勢多口総門跡碑が建っている。ここは江戸時代に膳所城勢多口総門が建っていた所で本田氏六万石の膳所城下町の南入口に当たり、ここに番所を設けて旧東海道を通って京へ向かう旅人に監視の目を光らせていた。 街道を左に折れて進み京阪電気鉄道石山坂本線の踏切を渡ると左手線路脇に地蔵堂がある。この地蔵堂には自然石の地蔵尊が7基安置されている。 地蔵堂の直ぐ先右手に若宮八幡神社がある。社伝によると壬申の乱(672)の3年後の白鳳4年(675)に天武天皇が宇佐八幡の神のお告げにより、我が子仁徳天皇の木像を下賜され社殿を造営したことが、この神社の始まりだと云われている。鳥居の先の表門は、膳所城の犬走り門で明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築された高麗門である。 若宮八幡神社の先を右に直角に曲がって進むと左手に日蓮宗の徳栄山妙幅寺がある。妙福寺は慶長年間(1596-1615)の創建である。

専光寺 光源寺 戒琳庵 篠津神社
妙福寺の先で京阪電鉄の瓦ヶ浜駅前踏切を越えると左手に臨済宗の専光寺がある。専光寺は寛正6年(1465)正善による開基であり、ご本尊は阿弥陀如来である。 続いて街道左側に真宗佛光寺派の膳所山三昧院高源寺がある。光源寺は康永2年(1343)光心による開基であり、ここには岩倉具視の継室の岩倉槇子(旧姓野口)の分骨が、岩倉家が建てた野口家累代の墓に合葬されているという。 街道を外れて光源寺の前の筋を右に入ると左角に戒琳庵がある。この戒琳庵は芭蕉門弟浜田珍碩の洒落堂の跡といわれ、庭には芭蕉句碑 「木のもとに汁もなますも桜哉」 がある。 街道に戻ると左手に篠津神社がある。
篠津神社の創始年代は不詳であるが、室町時代の中頃には鎮座していたと言われ、地元の氏神である。神社の表門である高麗門は、旧膳所城北大手の城門を明治3年(1870)に移築したものである。境内には数多くの境内社がある。

膳所城跡公園 膳所神社 縁心寺 和田神社
街道を進んで本丸町の信号交差点を右折すると突当りが膳所城跡公園である。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、翌年、築城の名手と言われた藤堂高虎に膳所城を築かせた。この城は天下分け目の合戦後、最初に作られた城で、築城には8人の奉行が当たった。公園入口には大手門が復元され、公園中央に本丸の石垣が僅かに残っている。 街道に戻って本丸町の信号交差点を左折すると膳所神社がある。社伝によると、天智天皇の大津京遷都のとき、膳所の地が御厨(みくりや)の地と定められ、天武天皇の代に大和国から食物の神を移して祀ったのが膳所神社の始まりと云われる。鳥居の先の表門は、旧膳所城の二の丸より本丸への入り口にあった城門で、明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築された 街道に戻って本丸町の信号交差点を先に進むと左手に浄土宗の梅香山縁心寺がある。縁心寺は慶長7年(1602)に本多康俊が父忠次の追善のため三河国西尾(愛知県西尾市)に建立したもので、元和3年(1617)に膳所藩への移封に伴い一緒に移ってきた。ここは膳所城主菩提所であり、境内には武家から庶民まで信仰を集めた八臂弁財天が祀られている。 続いて街道の左手に和田神社がある。和田神社は白鳳4年(675)の創建で、本殿は一間社流造で国の重要文化財に指定されており、表門は膳所藩の藩校 「遵義堂(じゅんきどう)」 の門を移築したものである。境内には推定樹齢600年という大銀杏があり、石田三成が関ヶ原合戦後、捕らわれて京へ護送される途中、休息の際に繋がれた樹であると伝わっている。

響忍寺 石坐神社 膳所城北総門跡 地蔵堂
和田神社の先のY字路を左に進んだ突当りに真宗大谷派の春台山響忍寺がある。響忍寺の山門は長屋門で、藩家老村松八郎右衛門の屋敷門を移築したものである。 街道は突当りの響忍寺を遠巻きにするように左に半円を描いて響忍寺の裏手に進んで行く。裏手に回って直ぐ左手に石坐神社がある。この神社は延喜式に近江国滋賀郡八社の一に数えられており、朱鳥元年(686)の草創と伝わっている。本殿は文永3年(1266)で滋賀県指定文化財となっており、境内には弁財天社・稲荷社・石神社などがある。 石坐神社の先で街道が枡形になる右手角に膳所城北総門跡碑が建っているが、他には何も遺構は残っていない。この膳所城北総門跡碑の斜向かいに地蔵堂があり、可愛い地蔵尊が色付けされている。 枡形の先の信号交差点手前の駐車場脇にブロックで覆われた地蔵堂がある。地蔵堂には般若心経を書いた布が巻かれた、綺麗に色付けされた地蔵尊3基が安置されている。

福正寺 義仲寺 地福寺 平野神社
地蔵堂の先左手に真宗大谷派の常盤山福正寺がある。福正寺の直ぐ先にも真宗佛光寺派の光林寺があるが、いずれも参道口にチェーンが張られたり、門扉が閉められていて境内に入ることが出来なかった。 続いて街道左手に義仲寺がある。義仲寺は無名庵ともいい、元暦元年(1148)に木曾義仲の死後、巴御前が草庵を営み供養を続けたので巴寺と称したのに始まると言われ、戦国時代に荒廃したが天文22年(1553)近江守佐々木義文によって再興された。山門脇には巴御前を弔うために祀った巴地蔵があり、境内には義仲供養塔・芭蕉句碑などがある。 義仲寺を過ぎると京阪電鉄石山坂本線の踏切を渡った左手筋を入ったところに臨済宗妙心寺派の松本山地福寺がある。参道口に地蔵堂があり、境内には弁天堂・地蔵堂などがある。 街道に戻ると左手に平野神社の社標と常夜燈があり、その先を進むと右手に平野神社がある。平野神社は、天智天皇が大津宮へ遷都されたとき、都の3里以内に守護神として祭祀され、藤原鎌足により創建されたと言われている。御祭神は大鷦鷯皇命(おおささぎのみこと)・猿田彦命であり、境内には愛宕神社・天満宮などの境内社がある。

地蔵尊 成覚寺 清源寺 生水地蔵尊
平野神社から街道に戻ると左手に風化の進んだ地蔵尊が建っている。この先で片道2車線の道路を横断して行くが、この道路の右手奥に滋賀県立琵琶湖文化館の塔が見える。 片道2車線の道路を横断して間もなく右手に浄土宗の正信山成覚寺がある。成覚寺は慶長3年(1598)法阿による開基である。山門は閉じられており境内に入ることは出来なかった。 続いて街道左手に浄土真宗本願寺派の清雲山清源寺がある。清源寺も山門は閉じられており境内に入ることは出来なかった。 清源寺の隣に生水地蔵尊がある。
由緒など不詳であるが、立派な地蔵堂が建てられていることから、地元の人々に大事にされてきたようである。

華階寺 地蔵堂 天孫神社 唯泉寺
街道を進んで中央大通りを左折すると浄土宗の旭光山華階寺がある。山門前には 「俵藤太矢根地蔵月見の石」 と刻まれた碑がある。境内には、俵藤太(藤原秀郷)が三上山でムカデを退冶した大矢で彫ったという地蔵尊が祀られている。また、大通りの中央分離帯には、かつて華階寺の敷地であったが都市計画で道路になったので、そのまま残した推定樹齢400年のイチョウがある。 華階寺の角の京町三丁目交差点を左折すると塀の間に地蔵堂があり、沢山の地蔵尊が安置されている。 地蔵堂の隣に天孫神社がある。
天孫神社は、50代桓武天皇が近江大津宮に行幸の際、琵琶湖南部鎮護の神として彦火火出見尊を勧請したことに始まり、例祭は湖国三大祭の一つで滋賀県無形民俗文化財に指定されている。境内には八幡神社・天満宮・日若宮・稲荷社・輻輳神社などの境内社がある。
中央分離帯のある大通りを越えて街道に戻ると左手に真宗大谷派の竹越山唯泉寺がある。唯泉寺は弘仁2年(811)道河による開基で慶長3年(1598)に天台宗から真宗に改宗している。唯泉寺も山門は閉ざされており境内に入ることは出来なかったが、山門脇に地蔵堂があり大日如来・地蔵尊が安置されている。

宿並み 露国皇太子遭難地碑 大津宿本陣跡 妙光寺
地蔵堂の隣には、すだれ老舗店があり、その隣には明治38年(1905)建築の大津魚忠があり、国の登録有形文化財となっている。 街道を進むと左手路地角に此附近露国皇太子遭難之地碑が建っている。ここは明治24年(1891)訪日中の帝政ロシアのニコライ皇太子を警備の津田三蔵巡査がサーベルで切り付けた 「大津事件」 の発端となった場所である。これが政府と司法の対立となり、死刑を主張する政府に対し、無期徒刑の判決を下し司法権の独立を貫き通した。 街道を進み京町一丁目交差点を左折して行くと滋賀労働局の立看板のところに大津宿本陣跡がある。大津宿は大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)、肥前屋九左衛門の2軒の本陣と播磨屋市右衛門の脇本陣1軒が八丁筋にあった。大塚本陣のあったこの場所には明治天皇聖跡碑があるのみで遺構は残っていない。 春日町信号交差点を過ぎると右手の京阪電鉄京津線を越えたところに日蓮宗の水上山妙光寺がある。妙光寺は天正元年(1573)日性による開基であり、山門前に妙見大菩薩碑、境内には鳥居のある妙見宮がある。

関蝉丸神社
妙光寺の先に関蝉丸神社がある。
この神社の参道も京阪電鉄京津線が横断している。関蝉丸神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ)の祖神ともいわれている。蝉丸は醍醐天皇の第四皇子、あるいは宇多天皇の皇子・敦実親王の雑色などとも伝えられている。

平成27年11月22日(日) ☀  大津~京都三条大橋  10.7㎞
今日はH25.6.1に日本橋をスタートしてから35日目で京都三条大橋までの538㎞を完歩することとなる。ここまで峠道を一緒に歩いてくれた友人と共に京都へ入る予定である。紅葉の時期に合わせて京都に入ることにしたが、事前情報では今年は気温が高いため綺麗に色付いていないという。

旧小島庄兵衛宅 安養寺 旧逢坂山隧道 念仏寺
JR大津駅南口から国道1号線に出て街道(国道161号線西近江路)へ下ると突当りの家の前に石柱が建っている。石柱には 「一里塚庄兵衛 御算盤師」 と刻まれている。小島庄兵衛は、大津算盤を完成させた此の地の片岡庄兵衛と同様、算盤作りを営み、算盤作りが盛んになるとコマ屋といわれる玉作りの専門業が派生し、そのコマ屋の旗頭が小島庄兵衛であった。 旧小島庄兵衛宅の先で京阪電鉄京津線の踏切を渡ると右手に浄土真宗本願寺派の逢坂山安養寺がある。安養寺は貞観4年(862)の開基であり、本堂には重要文化財の阿弥陀如来座像が安置されている。 安養寺の先に旧逢坂山隧道東口がある。この隧道は、日本人の技術者・技能者が主体となって設計・施工を行った我が国初の山岳隧道である。明治11年(1878)10月東口から、また同年12月西口から、それぞれ掘削を進めて約1年8か月の歳月を費やして、明治13年(1880)6月に竣工したもので、大正10年8月線路変更により廃線となるまで東海道本線の下り線として使用された。 旧逢坂山隧道の先の逢坂一丁目交差点で国道1号線に合流する。この先は右側に歩道が無いので、ここで左側に渡ると京阪電鉄の脇に浄土宗の念仏寺がある。

関蝉丸神社上社 弘法大師堂 逢坂 逢坂の関記念公園
名神高速道路の高架下を過ぎると右手に関蝉丸神社上社がある。関蝉丸神社上社と下社は、社伝によれば平安時代、嵯峨天皇(809-23)のときに猿田彦・豊玉姫をまつり、円融天皇(969-984)の代に蝉丸を合祀したと云われている。社殿は国道1号線に面した斜面にあるが、ここは横断歩道があり、押しボタン式信号も設置されている。 関蝉丸神社の前の信号を渡って先に進むと、右カーブの手前右側に弘法大師堂がある。ここは車がカーブで見えないこともあり、道路を渡るのに注意が必要である。中央に弘法堂があり、中には小さな弘法大師像が安置され、脇の不動堂には大日如来像と不動明王像などの石仏が安置されている。 弘法大師堂の先の逢坂は一段と急坂になり、左手の擁壁には車石の説明や大津絵の 「藤娘」 などの絵がが貼られている。 逢坂を上り切った右手に平成21年(2009)に完成した逢坂の関記念公園がある。逢坂の関は京の都を守る重要な関所である三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)の一つであり、弘仁元年(810)以降重要な役割を果たしていた。逢坂の関の位置については、現在の関蝉丸神社上社から関寺の周辺にあったと言われているが、詳細は不明である。ここには逢坂山関址碑・逢坂常夜燈・歌碑などがある。

地蔵堂 老舗「かねよ」 蝉丸神社 道標・標柱
逢坂の関記念公園の斜向かいに地蔵堂があり、一体の地蔵尊(大日如来と思われる)が安置されている。 地蔵堂の先に明治5年(1872)創業の老舗「かねよ」という 「うなぎ屋」 がある。ここには百人一首の三条右大臣に詠まれた名木 「逢坂山のさねかづら」 の現存する庭園があるという。 老舗「かねよ」 の直ぐ先右手に蝉丸神社がある。蝉丸神社は天慶9年(946)蝉丸を主神として祠られ、その後、万治3年(1660)現在の社が建立され街道の守護神猿田彦命と豊玉姫命を合祀している。境内には車石が保存され、境内社の皇大神宮社がある。 蝉丸神社から緩やかな坂道を下って来ると左手の民家2軒の前にそれぞれ道標・標柱が建っている。手前の家の前の道標には 「右京三条 左伏見」 と刻まれ、先の民家前には 「元祖走井餅本家」 と刻まれた標柱が建っている。斜向かいには鰻の老舗大谷茶屋がある。

片岡庄兵衛碑 月心寺 摂取院 地蔵堂
大谷茶屋の前で国道1号線の歩道橋を渡って先に進むと左手に平成15年の新しい標柱があり、大津算盤の始祖・片岡庄兵衛と刻まれ、解説がある。片岡庄兵衛は、慶長17年(1612)に長崎奉行長谷川佐兵衛藤広に従い長崎に居た際、明国(中国)から渡来した算盤をもとに創意工夫をこらし、日本で初の算盤を製作し、以後幕府の御用達算盤師になったという。 片岡庄兵衛碑の直ぐ先に月心寺がある。月心寺はかつては走井の茶屋として繁盛していたが、大正時代の初めに日本画家の橋本関雪が朽ちるのを惜しんで自分の別邸にし、その後月心寺となったという。月心寺の庭園に有る井戸は、歌川広重が描いた東海道五十三次大津宿走井茶屋に描かれた走井の水であると言われている。境内には入れないが、街道から明治天皇駐輦之碑などが見える。 街道を進み名神高速道路の高架をくぐると街道は左の旧道に入るが、国道1号線を渡った段上に浄土宗の光明山摂取院がある。摂取院は天正2年(1574)道春による開基であり、境内には大小5つの地蔵堂がある。また追分町髭茶屋にあった道標が中程で繋ぎ補修された状態で保存されている。 街道に戻ると左手に地蔵堂があり、正面の香炉には大日如来と刻まれている。御堂内にはいくつかの地蔵尊や石仏があり、中央に大日如来と思われる石仏がある。また御堂の前には車石が保存されている。

佛立寺 旧道家並み 追分 地蔵堂
地蔵堂の直ぐ先右手に本門佛立宗の長松山佛立寺がある。佛立寺は安政6年(1859年)に開創された本門佛立宗最初の寺院で初転法輪道場と呼ばれ、また、慶応4年(1868)開導聖人初の法難にちなみ法難地道場とも称される。境内には開導聖人像・今大路旧邸・慶應2年の常夜燈などがある。 蓮街道を進むと虫籠窓の付いた旧家があり、家の窓に大津絵が飾られている。 大津絵のあった家の直ぐ先に東海道と伏見街道(京街道、東海道57次とも)の追分があり、中央に道標が建っている。この道標は昭和29年3月再建とあり、摂取院にあった道標のレプリカである。隣には明和3年(1766)の蓮如上人御塚の道標が建っている。いずれの道標も下部は鉄板で包まれて保護されている。 追分を左に入ったところに地蔵堂と頌徳碑が建っている。地蔵堂には2基の色付けされた地蔵尊が祀られている。

追分町標柱 閑栖寺 地蔵堂 道標
追分道標を右に進むと追分町自治会館前に追分町標柱が建っており、「この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点に当たっていました。追分の名は、このような街道の分かれ道で、馬子が馬を追い分けることからきたものです。なお、江戸時代、付近の街道沿いには、鬚茶屋町、南北追分町の三か町が並んでいました。」 と記されている。 追分標柱の直ぐ先右手に真宗大谷派の放光山閑栖寺がある。
山門前には東海道の道標があり、境内には入れなかったが、山門から車石や道標、そして和風句碑が見えた。、
閑栖寺の先の国道1号線と西大津バイパスの合流地点の脇に地蔵堂と旧藤尾小学校跡地碑が建っている
明治8 年(1875)、この地に創立された古関学校は、明治19年 (1886)に大津第二教場となり、その後、明治25 年(1892)大津藤尾尋常小学校(藤尾小学校)となり、後に大津市茶戸町(現在地)に移転している。
地蔵堂の先左手に小さな道標が建っている。道標には 「牛尾山」 と刻まれており、ここから南へ4~5㎞ほどのところにある牛尾山法厳寺を指している。法厳寺は、牛尾山の中腹にある寺院で創建は不詳であるが、奈良時代の創建と伝わっており、かつては清水寺の奥の院と言われ、通称を牛尾観音と呼ばれている。

焼塀の蔵 小関越道標 地蔵堂 善福寺
牛尾山道標の路地を挟んだ隣の家は焼塀の蔵と主屋の間に坪庭があり、蔵の塀には 「煌めき大津賞・都市景観部門受賞」 と記載がある。 国道1号線を横断歩道橋で渡り、50m先の三叉路を右に進んで行くと小関越道標が建っている。
道標には 「三井寺観音道・小関越・願諸来者入重玄門・文政五季十一月建立常飛脚問屋」と刻まれている。傍らには明治36年(1903)の常夜燈が建っている。 
小関越道標を右に入ったところに地蔵堂があり、可愛い前掛けをつけた地蔵尊が4基祀られている。 小関越道標の直ぐ先右手に善福寺の寺標があり、入って行くと右手に真宗大谷派の逢西山善福寺がある。
山門は閉ざされて境内には入れなかったが、山門から親鸞聖人像が見えていた。

地蔵尊 徳林庵 十禅寺 圓光寺
善福寺の先の民家の塀に祀られた地蔵尊があり、その先、四宮駅の通りと四宮川を渡ったところに地蔵堂がある。 四宮川を渡ると右手に臨済宗南禅寺派の徳林庵がある。南禅寺の雲英禅師がその祖と言われ、仁明天皇の第四の宮人康親王の菩提を弔うために草創したという。徳林庵には南北朝時代建立の人康親王と蝉丸の供養塔があり、この六角堂には小野篁柞で1157年に後白河天皇の勅命により京都の主要街道に六ヵ所に設置された地蔵のうちの一体が安置されている。 徳林庵の脇を入って行くと京阪電鉄京津線を渡った突当りに十禅寺がある。十禅寺は聖護院門跡の末寺で平安時代の859年、仁明天皇の第四の宮人康親王を開山として創建され、この辺りが 「四の宮」 と呼ばれる所以となったと言われている。境内の東北隅の樹の下に開山人康親王の廟がある。 街道に戻って進むと右手に圓光寺寺標があり、参道を入って行くと京阪電鉄京津線を渡った突当りに長屋門の真宗大谷派の圓光寺がある。長屋門の山門は閉ざされており境内に入れなかったが、山門からは蔡華堂の扁額の掛かる御堂が見えた。

諸羽神社鳥居 地蔵堂 来迎寺 道標
圓光寺寺標の一軒隣に諸羽神社鳥居がある。鳥居の先を進むと圓光寺の脇を通って東海道本線の高架を潜った先に諸羽神社がある。貞観4年(862)清和天皇の勅により社殿が造営され、両羽大明神と称されたが、その後、諸羽神社と改称されたという。境内には、仁明天皇の第四の宮である人康親王の山荘跡にあったという琵琶石が保存されている。 街道に戻ると諸羽神社鳥居の一軒隣の民家前に地蔵堂があり、その先、四宮川に流れ込む小川を越えた左手のビューティーパーラールビーの前と右手たかひろ接骨院の隣の路地に地蔵堂がある。 街道右手の安朱保育園の隣に浄土宗西山禅林寺派の九品山来迎寺がある。鎌倉時代の嘉禄3年(1227)西山国師により建立され、元亀元年(1570)織田信長と戦った浅井長政の兵に焼かれ、寛永8年(1631)に再建された。安朱保育園は来迎寺の敷地内にあるようである。 来迎寺の直ぐ先の右手エスタシオン・デ・山科三品の前に道標が建っており、「東海道 大津札の辻まで一里半 京三条はし迄一里半」 と刻まれている。
傍らには車石があり、入口奥には御菓子司三品老舗の看板があり、昔は御菓子屋さんだったようである。

山科別院道標 明治天皇御遺蹟碑 安祥寺寺標 大津畑橋
街道を外れて東海道山科駅前に行くと京阪電鉄京津線の脇に山科別院道標が建っている。
道標には、「本願寺山科両別院 是より六丁」と刻まれており、ここからは南へ六丁進むことになる。本願寺には西と東の2つの本院があり、山科両別院とはそれぞれに所属する別院のことをいうそうである。
街道に戻るとホテルブライトンシティ京都山科の植栽の中に明治天皇御遺蹟碑と東海道碑が建っている。 街道右手に高野山真言宗の吉祥山安祥寺寺標がある。安祥寺は嘉祥元年(848)仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子の発願により入唐僧・恵運によって創建された。寺標からは東海道本線を越えた山裾に位置している。寺標の直ぐ奥に地蔵堂があり、大日如来と地蔵尊が安置されている。 安祥寺寺標の直ぐ先の十字路に南北に流れる安祥寺川に架かる大津畑橋がある。

愛宕常夜燈 當麻寺 五条別れ道標 阿弥陀寺
大津畑橋を渡ると右手の表具店の前に愛宕常夜燈が建っており、表具店の向かいには地蔵堂がある。 愛宕常夜燈から程なく右手に浄土宗西山禅寺派の弘誓山當麻寺がある。當麻寺は、鎌倉時代の天福2年(1234)石山上人による開基で天明3年(1783)に焼失し、同年に再建された。山門は閉ざされ境内に入れなかったが、山門から七重塔・やすらぎ観音が見える。 街道を進むと左手のクリーニング丸江の先の路地角に五条別れ道標が建っている。ここは三条通りと五条大橋の追分で、道標には 「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛今ぐ満きよみず道 右ハ三条通」 と刻まれている。 五条別れ道標の直ぐ先にある寺西幼稚園の標柱の右手路地を入って行くと浄土宗の吉祥山無量寿院阿弥陀寺がある。阿弥陀寺は奈良時代の僧行基による開基といわれ、ご本尊の阿弥陀如来像は源信の作と伝えられ、平重盛の念持仏と言われている。境内には子育地蔵尊・子授け地蔵尊・百八体の地蔵尊がある。

鍾馗像のある家 陵ヶ岡みどりの径 天智天皇陵 琵琶湖疎水煉瓦工場跡
緩やかにカーブを描く下り道を進むと右手に鍾馗像のある黒塀の美しい家がある。この家の向かいには地蔵堂があり、2基の地蔵尊が安置されている。 街道を進んで三条通に合流し、東海道本線のガードをくぐると左手に京阪京津線廃線跡の陵ヶ岡みどりの径入口がある。冠木門の脇には地蔵堂があり、3基の地蔵尊が安置されている。 冠木門の道路を挟んだ向かいは、天智天皇陵への参道口である。ここは宮内庁により、山科陵(やましなのみささぎ)として第38代天智天皇の陵に治定されている。 街道からは外れるが、三条通を先に進んだ地下鉄京阪電車の御陵駅の近くに琵琶湖疎水煉瓦工場跡碑が建っている。当時わが国には、疎水建設工事を賄う煉瓦製造能力が無く、京都府は自給の方針を立て、原料の採取と製品の運搬に適したこの地を選定し、明治19年7月操業を開始し、明治22年10月に閉鎖されるまでに1370万個を製造したという。

旧道口 道標 大乗寺 光照寺
街道に戻ると天智天皇陵参道口の斜向かいに旧道口があり、塀に黄色い旧東海道の標示がある。細い街道を進むと直ぐ左手に4基の地蔵尊が安置された地蔵堂があり、その先の十字路の旧東海道の標示を過ぎると右手の塀の間にも地蔵堂がある。 旧道が急坂になる左手に道標が2つ建っている。大きい方は 「右妙見道 二条講中」 と刻まれ、小さい方は 「右かざんいなり道」 と刻まれている。この道標の一角には亀の水不動があり、元文3年(1738)木食正禅養阿上人が道普請の際、人足寄場として建てた梅香庵跡であるが、荒廃していて敷地内にも入れなかった。 道標の直ぐ先に大乗寺の寺標があり、参道の石段を上がって行くとに小さな建物の大乗寺がある。大乗寺は、約300年前に京都七本松に建立され、その後、禅宗系の寺から法華宗の寺に改宗されたと伝えられている。境内には、酔芙蓉が茂り、小倉百人一首の句碑などもあり、酔芙蓉の寺と呼ばれている。 大乗寺の先に街道から左へ上る石段があり、石段脇には圓光大師御旧跡碑が建っている。この階段を上り詰めると、木曽義仲軍が京へ乱入した時に法然上人が避難されたという頂後山光照寺がある。境内には小さな庭園があり、善光寺如来や石仏が置かれている。

地蔵堂 車石・荷車 粟田口刑場跡 地蔵堂
光照寺から街道に戻ると右手に地蔵堂があり、この先府道143号線の三条通に合流するまでに6つの地蔵堂がある。いずれも大日如来と思われる石仏や地蔵尊が安置されている。 三条通に合流すると左手に荷車のモニュメントと車石が置かれた広場がある。 車石の広場の先の左手段上に粟田口刑場跡がある。粟田口刑場は江戸時代より前から刑場として機能していたとされ、罪人総数約15000人ほどが処刑されたと云われている。天王山の戦いに敗れて殺された明智光秀の遺体が晒されたところであり、南無妙法蓮華経題目碑と萬霊供養塔が建っている。 粟田口刑場跡を過ぎると東山ドライブウェイの高架手前右手に地蔵堂がある。地蔵堂の中央には地蔵菩薩立像があり、足元にたくさんの地蔵尊が安置されている。

地蔵堂 日向大神宮 安養寺 蹴上インクライン
東山ドライブウェイと三条通の交差点の右手にあるアイリス化成㈱の脇に地蔵堂があり、地蔵菩薩と大日如来が並んで安置され、周囲にはたくさんの石仏がある。 左手に蹴上浄水場を見ながら下って行くと右手に日向大神宮社標と安養寺寺標が建っている。参道を進むと大神宮橋の手前に2基の常夜燈があり、参道を15分ほど登ると手水舎の前に出て、拝殿・外宮・内宮と続いている。日向大神宮は、第23代顕宗天皇の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられている。 日向大神宮参道途中の左手に西山浄土宗の青龍山安養寺がある。安養寺は天台宗の寺院として円仁により開かれたが、天正18年(1590)に道観により浄土宗に改宗されたという。境内には不動堂があり、東巌倉不動明王が祀られている。 琵琶湖疎水の脇の公園に蹴上インクライン・浄水場導水管・田辺朔郎博士の像などがある。この蹴上インクラインは落差のある水路間をつなぐため、ケーブルカーの要領で荷物や客を船ごと上げ下ろしする鉄道として造られたものである。

煉瓦トンネル 蹴上発電所 地蔵堂 道標
街道に戻るとインクラインの下を通る煉瓦造りのトンネルがある。トンネルの上部には 「雄観奇想」 と書かれた扁額があり、この 「雄観奇想」 の揮毫は京都府知事・北垣国道の筆によるものである。 街道に戻ると、蹴上交差点のY字路の中央下に煉瓦造りの第二期蹴上発電所の建物が保存されている。明治24年(1891)に造られた日本最初の水力発電所で、当初は80キロワットのエジソン式直流発電機2台が設置されていたが、現在は発電機能は廃止されている。第三期蹴上発電所は、関西電力蹴上発電所として発電が行われている。 蹴上発電所を過ぎると右手路地に地蔵堂があり、目鼻を色付けされた地蔵尊が安置されている。 地蔵堂の先の信号交差点右角に道標があり、「三条通大津道 左動物園黒谷真如堂道」 と刻まれている。この道標の道路を挟んだ向かいには地蔵堂があり、3基の地蔵尊が祀られている。

佛光寺本廟 良恩寺 合槌稲荷大明神 粟田神社
三条通左手のウェスティン都ホテルの隣に真宗佛光寺派の本山佛光寺本廟がある。佛光寺は、越後に流罪となった親鸞聖人が赦免後の翌年建暦2年(1212)に京都に帰られ、草庵を結んだのが草創と伝えられている。境内には親鸞聖人の御廟所があり、傍らに刀匠の三条小鍛冶宗近之古跡碑が建っている。 佛光寺の前の細道を三条通に並行して進むと左手に浄土宗西山禅林寺派の華頂山良恩寺がある。良恩寺は、永禄7年(1564)僧浄清による開基であり、江戸時代に裏の花頂山にあった火葬場を管理し、葬者に地蔵尊の前で引導を渡していたという。境内には入れなかったが、山門前に導引地蔵尊と刻まれた寺標が建っている。 良恩寺から三条通に戻ると右手に合槌稲荷大明神の赤い鳥居がある。狭い参道を入って行くと民家の前を枡形に進んだ先に小さな社殿がある。合槌稲荷大明神は、刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂と云われ、その邸宅は三条通の南側粟田口にあったと云われている。 合槌稲荷大明神の先左手に粟田神社の鳥居が建っている。粟田神社は、孝昭天皇の分かれである粟田氏が此の地を治めていた時に氏神として創建した云われている。境内には北向稲荷神社・出世恵美須神社の摂社、大神宮・鍛冶神社・朝日天満宮・吉兵衛神社・太郎兵衛神社の末社などがある。

坂本龍馬・お龍結婚式場跡 白川橋道標 大将軍神社 高山彦九郎正之像
街道左手のパークウォーク京都東山というマンションの前に坂本龍馬・お龍「結婚式場」跡碑が建っている。碑の隣には解説が有り、「当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は 「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。」 と記載されている。 直ぐ先の白川に架かる白川橋の袂に、三条白川橋道標が建っている。この道標は延宝6年(1678)建立で市内に現存する最古のものである。 白川橋を渡ると左手に大将軍神社がある。大将軍神社は、素戔嗚尊を主祭神とし、藤原兼家を配祀しており、延暦13年(794)桓武天皇が平安京造営の際、大内裏鎮護のために都の四方に祭祀した大将軍神社のうち東南隅の一つである。境内には白龍弁財天・天満宮・荒熊稲荷社・隼社などの境内社のほか、推定樹齢800年の御神木のイチョウがある。 三条大橋の手前の交差点左角に土下座して御所を遥拝する高山彦九郎正之像がある。高山彦九郎は、群馬県の出身で18歳の時以来、前後5回上洛したが、京都に出入りする折には、京都御所に向かって拝礼した。吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物である。

三条大橋
三条大橋は鴨川に架かる橋で東海道と中山道の終点である。橋が架けられた時期は明らかではないが、豊臣秀吉の命により改修された記録があり、欄干には当時の擬宝珠も一部残っている。また三条大橋西側から2つ目の擬宝珠に寺田屋騒動でついたといわれる刀傷が残っており、西側渡り詰めには弥次喜多像が建っている。

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