関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)、東海道を制し、湖上の船運を抑える目的で、現在の膳所城跡公園(膳所崎)に膳所城を築城させました。築城計画は藤堂高虎が担当し、それまで膳所崎に流れていた相模川を北方に付け替えたといいます。はじめのお城は、本丸と二の丸、三の丸が分かれていましたが、寛文2年(1662)の大地震でお城が大きな被害を受け、それまで分かれていた本丸と二の丸を合体させ、東西が最大80間、南北最大約55間の規模を持つ本丸として再生しました。本丸の跡は、現在、膳所城跡公園となっています。また、それまでの三の丸が二の丸となり、現在は浄水場となっています。江戸時代、東海道を旅する人たちにとって、湖水に写る天守閣はひときわ美しかったらしく、多くの絵に膳所城は描き残されています。
 現在の膳所城跡公園北側に位置していた天守閣の規模は最上層が3間四方、その下が4間四方、さらにその下が5×6間、最下層が7×8間だったそうです。
 城主(膳所藩主)は、初代が戸田一西、以後、戸田氏鉄、本多康俊、本多俊次、菅沼定芳、石川忠継、石川憲之と続き、慶安4年(1651)本多俊次が再度の任に就いて以降は、本多家が代々城主を歴任しました。

膳所案内絵図

 昭和16年旧制第四高等学校(金沢市)漕艇部員が春季合宿中に遭難した。その霊を慰めるべく桜を植えて弔った。

英霊塔の観音像

少年の 日の還りくる 石鹿の 渚辺ぬくし 鮎も寄りくる

琵琶の水 みづうみながら 流れをり 膳所の浜辺を ゆるく洗ひつ

滋賀県戦没者英霊塔

伊藤雪雄歌碑

飯田棹水歌碑

鎮魂 平和の礎

四高桜

浜弁財天 白王龍神 地主大神

琵琶湖大橋

僅かに残る本丸石垣

膳所城阯碑

復元された大手門 (高麗門)

大手門内側