鏡山・天智天皇陵を背景に、疎水建設に必要な煉瓦製造工場が御陵原西町一帯に設けられた。
 当時わが国には、この大工事を賄う煉瓦製造能力がなく、京都府は自給の方針を立て、原料の採取と製品の運搬に適したこの地を選定、若き技師菊田宗太郎を起用し、明治19年7月操業開始、明治22年10月に閉鎖されるまで1370万個を製造した。
 京都再生への命運をかけた琵琶湖疎水建設が、日本の近代土木・工業技術等の発展の魁となった足跡を語る遺跡である。
煉瓦工場概要
 敷地13,471坪、工場10棟、窯場3棟、釜12ヶ所、煙突8基

解説碑に刻まれた工事の模様

琵琶湖疎水煉瓦工場跡解説碑

琵琶湖疎水煉瓦工場跡碑