大津―京都間を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資が運ばれていましたが、この逢坂の峠道は特に運送の難所でした。 江戸時代、運搬の多くなった文化2年(1806)3月に京都の心理学者・脇坂義堂は一万両を費やし、大津から京都三条にかけて約三里(12㎞)の間を荷車往来用に 「花崗岩」 に轍を刻んだ敷石を並べて通行に役立てました。これを 「車石」と呼んでいます。
蝉丸の歌
藤娘の絵
車石解説
これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも 逢坂 の関