この隧道は、日本人の技術者、技能者が主体となって設計・施工を行った我が国初の楊岳隧道です。
明治11年(1878)10月5日東口から、また同年12月5日西口からそれぞれ掘削を始め、約1年8ヶ月の歳月を費やして明治13年(1880)6月28日に竣工したもので、大正10年(1921)8月1日、線路変更により廃線となるまで、東海道本線の下り線として使用されていたものです。
全長664.8mに及ぶこの隧道は、当時の工部省(「明治3年(1870)に鉄道・鉱山・工作・灯台・電信・造船など、殖産興業のための官営事業をつかさどるために創設された中央官庁。85年廃止。」)の直轄であった生野銀山の労働者が伝統的なノミやツルハシを主体とした手掘りで掘り抜いたとされています。
こうして完成した逢坂山隧道は、鉄道の歴史に残る記念すべきもので、日本の技術史の上でも大きな意義を持つものです。
坑門上部にある「楽成頼功」の扁額は、竣工を記念して時の太政大臣・三条実美の揮毫によるもので、「落成」は「落盤」に通じる忌み言葉であることから、縁起の良い「楽成」の字を充てました。
日本の近代トンネル技術は、その後、世界的なレベルへと大きく発展することとなりました。
旧逢坂山ずい道東口説明
トンネル上部の扁額
右側の隧道
逢坂山隧道東口下り線
「楽成頼功」 (太政大臣・三条実美 筆)
明治31年(1898)複線化工事で増設された上り線の隧道