従是西田中領碑

 この傍示石は田中領と岩村領との境界傍示標である。弘化年中(1846年頃)幕府より諸侯領地の傍示標は総て石材に改むべしとの布令があったので、田中領主本多侯は、欧陽詢の書風よろしき、領内小土の藪崎彦八郎に命じ「従是西田中領」の文字を書かせた。又これを城下、長楽寺町の石材業某に命じ彫らせた。筆跡彫刻ともに街道中に比類なき作と称された。
 斯くして、この碑を領地境に建立したが、やがて明治4年(1871)、廃藩置県令が発布され、この傍示石を撤去することとなり、故あって水守の菊川晋一氏宅に在ること数十年、1950年頃田中城跡、現西益津中学校正門脇に建てられ今日に至っているが、この碑を本来あるべきこの地に復元しようと、ここに複製を建立し後世に伝えるものである。因みに碑文の題字は本碑の拓本に依るものである。

名残松の下の榜示石

「従是西田中領」 榜示石