島田代官所が野田から柳町に移った翌年の、元和3年(1617)に代官長谷川藤兵衛長親が、地域住民の安泰と五穀豊穣を祈るため代官所の屋敷内に稲荷祠を建立した。寛政6年(1794)代官所が駿府に統合された後も陣屋が置かれていたので、御陣屋稲荷神社と呼ばれている。
 祭神は宇賀魂神(別名倉稲魂神)を奉祀する。当時は住民の多くが農民だったので、五穀豊穣を願って信仰が広まったが、現在は商売繁盛の神として信仰されている。
 祭日は当初伏見稲荷神社と同じ2月初午の日であったと思われるが、その後3月初午になり、現在では、3月初午の前の日曜日に祭典が行われる。
 風刺人形の起源は明かではないが、代官所の頃には、罪人を庶民の前に晒して見せしめにしたようであるが、出張陣屋になってからは、庶民に勧善懲悪や忠孝貞節の本義を知らしめるため、罪状を記した人形を、自由に参拝できる稲荷祭の添物とし、参詣人に見物させるたものと思われる。
 この風習が、陣屋が廃止されてからどのような経緯で民間に引き継がれてきたのか定かではないが、前年の出来事を人形で風刺した稲荷祭日の風刺人形は、発言の場がない庶民にとっては、日ごろの鬱憤を晴らす機会として大いに人気があった。

境内社の大黒天覆屋

境内社の秋葉神社

覆屋の中の大黒天本社

祓除と刻まれた手水石

稲荷神社拝殿

拝殿屋根の狛狐

稲荷神社本殿

拝殿に掛かる稲荷神社の扁額

稲荷神社由緒