1601年(慶長6年)、島田も東海道の伝馬駅に指定されますが、わずか3年後の宿駅施設も民家もすべてが流失してしまいました。
 宿駅施設は一時、北の野田(元島田)に引越しますが、11年l後の1615年(元和元年)、元の地に復旧しました。
 その後、徳川頼宣(紀州大納言)が駿河城主のとき(1615~1619)、洪水から町並みを守るためと、その内側を地子(税)免除の屋敷分として区分するため、島田町並の両裏に 「境土手」(お囲い土手、お囲い堤ともいう) を築きました。
 また藤枝・田中城主水野監物が領主であった1635年~1642年(寛永12~19年)頃には、補強を兼ねて土手上に 「境松」 を植えたと記録されています。
 その後、向谷から道悦島までを囲む 「大堤」 が完成し、向谷水門を切り開いて宿内に中溝川・宮川・問屋川という灌漑水路が設けられました。そのために宿内に急激に開墾地が増え、人口が増加し、町並みが広がって、土手も境松もいつの頃から消滅してしまいました。現在残されているのはここ須田神社裏と御陣屋稲荷跡だけです。大切に保存したいものです。
(島田市教育委員会)

お囲い土手説明

お囲い土手跡