俳聖芭蕉翁遺跡・塚本如舟邸阯

「やはらかにたけよ今年の手作麦」 如舟

「田植えと共に旅の朝起」 芭蕉

元祿七 五月雨に降こめられてあるしのもてなしに心うこきて聊筆とる事になん

塚本家は代々孫兵衛を名乗り、元禄9(1696)年、初代の川庄屋を代官から任命されています。その他にも組頭、名主、問屋場の年寄、六代目からは問屋を務めるなど代々宿役人の養殖を務めました。当時の屋敷は、間口5間余、奥行き49間余でした。
 三代目孫兵衛は「如舟」と号して俳諧を嗜みましたが、後に子孫が、彼のことを「家業に精を出し、酒造・製茶を営んで、江戸に送り、東叡山(上野寛永寺)への献茶の御用を蒙るるなど繁盛して富貴になり、宿高の150石を持っていた」と伝えています。塚本家は主に茶商と大地主として財を成したようです。
 また彼は、島田出身の連歌師宗長を偲んで、長休庵という草庵を建てましたが、後に宗長庵という寺になっています。
 元禄4(1691)年、俳諧師芭蕉が江戸に向かう途中、俳人として知られていた如舟宅を訪れました。このとき芭蕉48歳、如舟51歳でした。
 また、元禄7(1694)年、芭蕉は、江戸から郷里伊賀上野へ向かう途中、再び如舟宅を訪れ、川留めのため、4泊5日滞在しています。このときにも、石碑に記されているような有名な句をいくつか残しています。
 なお芭蕉は、この年10月に永眠しましたが、芭蕉没後も塚本家には、芭蕉ゆかりの跡を求めて、親友の素堂や高弟の嵐雪・桃隣・支考・許六・涼菟らが訪れています

塚本如舟邸跡解説

俳聖芭蕉翁遺跡・塚本如舟邸阯標識について

塚本如舟は通称を孫兵衛と云い元禄の頃川庄屋を勤めた島田の名家であり俳人であり好事者でもあった。芭蕉翁は元禄4年10月東下りの際初めて如舟邸を訪れて
  宿かりて名を名のらする時雨かな
  馬方はしらじ時雨の大井川
などの句を残したが越えて元禄7年5月西帰の際それは芭蕉翁最後の旅ともなったが再び如舟邸を訪れたまたま大井川の川止めにあい4日間も滞在して
  さみだれの雲吹きおとせ大井川
  ちさはまた青葉なからになすび汁
など詠じ更に興に乗じて田植の連句
  やはらかにたけよことしの手作麦
の如舟の発句に翁は
  田植とともにたびの朝起
と付句し且
  元禄年 五月雨に降りこめられてあるじのもてなしに心うご   きて聊筆とる事になん
と後書まで添えた真跡が260年後の今日までそのまゝ塚本家に伝えられたことは何ともあり難い事である。この標識の碑面は其連句の真跡を写真模刻したものである。
 願うにわが島田の地に俳聖の佳吟が残され又はやくから蕉風の唱えられたのも如舟交遊の賜であった。誠に郷土として永く伝うべき文化史跡というペきである。