当地曲金一丁目は、古来谷津山山系の南端に当たり狐ヶ崎と称し、旧東海道の往還として栄えたが、また鎌倉幕府の武将梶原景時一族と地元武士団との合戦の古戦場であります。
 梶原景時は頼朝の信任厚く、戦功を重ね幕府の要職についたが、頼朝他界の後、頼家の治世に至り、幕府の内紛により免ぜられ、遂に幕府を追われ京都に於いて再起を図らんとして、正治2年(1200)正月19日、一族33騎は相模一宮を出発。上洛の途次、清見ヶ原(清見寺関所)に於いて幕府より追討の命を受けた地元武士団の迎撃を受け、高橋大内瀬名川を駆抜け当地狐ヶ崎に至り、行手に敵の待伏せと後続の味方苦戦と知り、西進不能と判断ここに決死の反撃を決意し、当町内合戦川周辺に於いて深夜月明かりの下大合戦となり、景時は残者を率いて再び敵中を突破、瀬名矢崎まで反撃したが、乱戦の末戦運利あらず全員討死した。
 ここにこれらの古戦場に散った戦死者の諸霊供養と長年に亘る有縁無縁の不成仏霊に対する慰霊供養と併せて町内平和祈願諸厄救済、広くは一般衆生済度のため、古戦場跡にふさわしい御本尊十一面観世音菩薩を勧請し奉り観音堂を建立諸願達成を祈願するものであります。
 十一面観世音菩薩は、古来より諸病救済や諸々除災祈願の霊験あらたかな観音様であります。
 なお梶原合戦に係る歴史的史跡として当観音堂のほか、高橋高源寺大内梶原堂梶原山矢射たん橋及当町内馬頭観音(法蔵寺門前)があります。

曲金観音堂由来

曲金観音堂

御堂に掛かる曲金観音堂の扁額

十一面観世音菩薩