華陽院由緒
華陽院は、徳川家康の祖母・源応尼の菩提寺で、はじめ知源院と呼ばれていた。源応尼は、天文20年(1551)8月、当時今川家の人質となっていた竹千代(後の家康)の養育者として岡崎から招かれ、知源院の近くに寓居を構えた。源応尼の新身の愛情は、肉親と遠く離れて淋しく暮らしていた幼い竹千代の心を大いに和ませた。竹千代は、源応尼の寓居と田んぼを挟んで隣り合ったこの寺へよく遊びに来たが、竹千代を慈愛の心をもって迎え、時には文筆の師となって訓育したのが、住職の知短であった。
源応尼は、永禄3年(1560)5月6日、成人した徳川家康が、今川義元上洛の先陣として浜松にあるとき、駿府で逝去した。後年、大御所として駿府に引退した家康は、祖母のために盛大な法要を営んだ。
「華陽院」 の名は、その法名から改められたものである。
境内には、源応尼の墓と並んで、7歳で死んだ家康の五女市姫の墓があり、近くには側室お久の方の墓もある。
家康公お手植えのみかん
家康の五女・市姫の墓
家康の側室・お久の方の墓
三つ葉葵の紋を刻んだ石燈籠
御城代・安藤直之の墓
家康の外祖母・源応尼の墓
六地蔵尊
本堂内陣
華陽院本堂
家康の五女・市姫の墓