上原延命子安地蔵尊は、古来世の人々の長寿、安産、子育、安全の守護神として、近隣の人々の信仰を集めてきた。創建年代は明かではないが、焼失した木像の御本尊は、行基菩薩作との伝説があった。これに従えば奈良時代となる。
 しかし庶民一般に地蔵信仰が普及し、各地に地蔵堂が建立されるようになったのは、鎌倉時代とされている。
 上原の古地名は地蔵原とも云われていいたが、室町時代後期には既に正式に上原の地名が用いられている。これらの事を思い合わせれば、創建は鎌倉時代あるいはそれ以前と考えられる。
 永禄11年(1568)12月武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本隊の武将・山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする上原の地に宿営布陣した記録がある。
 次いで天正10年(1582)2月徳川家康が、武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻の城主・穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果、梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。
 元和元年(1615)大阪夏の陣の直後、秋10月、何者かの失火により、御本尊と共に焼失した。以来地蔵堂は、間口1.2m、奥行1.8m程の仮堂で、41年間を過ごすことになったのである。
 昭和7年(1932)4月、上原地区の長い間の悲願であった地蔵堂も、区民40余年にわたり積み立てた浄財により立派に再建され、今日に至っている。
 昭和57年(1982)4月、昭和再建50周年を記念し、御本尊を開帳し、盛大な大祭が執行された。
 平成3年(1991)1月、境内入口にあった消防機具置場も撤去され、周辺の整備が行われ、石の堂標が建立された。
 毎年8月15日の祭礼の夜は、地蔵堂の広場で、大勢の人々が集まり、盆踊りなどが盛大に行われる。

推定樹齢230年のまき

上原子安地蔵堂堂標

上原子安地蔵堂

地蔵堂内陣

上原延命子安地蔵尊由来記