上原堤 「宗丹池」 は農業用水の溜池として、また狐ケ崎遊園地のボート遊び(行楽)の場として利用されて来たが、今は釣りや堤廻りの散歩等で地域の人々の憩いの場として親しまれている。
 水は数百年にもわたり、吉川・上原・馬走・堀込・北脇・北脇新田の田んぼに供給され稲を育てるために、秋や冬に水を溜め、水温を高めて米の成長する夏や秋に活用されていた。
 今も昔もそうだが、農家の人々はその年の米の収穫高は、生活に関わる重大な問題であったため、この水は利用する権利を地域別に定められていた。なお、この池の 「宗丹」 は、戦国時代の武将の若き頃の名前という説があるが、その由縁は定かではない。
 また、近年 「上原堤(宗丹池)」 は、狐ケ崎遊園地としても利用されてきた。
 狐ケ崎遊園地は、昭和2年(1927)に開園し、動植物園・遊具・運動場・食堂・池にはボート等の設備を備えた本格的な遊園地だった。
 後に狐ケ崎ヤングランドとなり、ジェットコースターやボウリング、夏はプール、冬はスケート等で市民の行楽の場として60数年間賑わいを見せていたが、平成5年9月閉園された。
 ちなみに全国に知られている民謡の 「ちゃっきり節」 はこの遊園地の開園を記念して作られた静岡鉄道のコマーシャルソングであった。

 東海道という言葉は、崇神天皇10年9月、四道将軍として武淳川別を東海に派遣した日本書紀の記事に始まる。ヤマトタケルが東征の道に草薙剣の物語りを残し、古代大和朝廷確立と律令国家の為の重要路として、防人たちが遠く九州に下り、調を積んだ荷駄が大和に向けて通ったことであろう。中世には、「いざ鎌倉」 のために整備され、徳川時代になり東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。慶長12年(1607)徳川家康公の命により、当時の東海道は今の北街道を通っていたものを七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)を架け、追分上原を通り駿府横田まで駅路(正規の道)となった。善男善女が旅を急ぎ、大名行列が通り、村人は助郷の課役に難渋し、幾多の物語りを残した東海道も国の発展と共に昔日の面影は消えてしまったが、ここに日本の歴史と共に歩いてきた古道が有ったことを末永く記憶の中に留めておきたい。

上原堤 (宗丹池)説明

東海道案内