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大山街道   (本厚木~大山登口


平成30年12月19日(水)   ☀    本厚木~大山登口    15.6㎞
昨日に引き続き、天気が良く暖かな日和のようなので、昨日の続きを決行することとした。まだ暗い午前5時30分に家を出て、電車の中で日の出を迎えると、本厚木駅に7時10分に到着した。

きりんど橋跡 旧道口 庚申塔 大山
本厚木駅からきりんど橋跡までは15分位で到着した。朝食をとっていなかったため、途中のコンビニで買ったおにぎりを、このきりんど橋跡の脇に在るベンチで食べて出発である。 きりんど橋跡の前の旭町4丁目信号のところから、斜め左に進む旧道があり、ここから県道601号線と分かれて、桜並木の歩道を進んでいく。
左手には、ソニー厚木テクノロジーセンター、厚木ガス防災センターなどの建物が続いている。
左手の桜並木が途切れた岡田一本杉バス停のところに、庚申塔が2基建っている。辛うじて年代が確認できるものは、天保6年(1835)の庚申供養塔である。
道路を挟んだ向かい側には、鳥居を構えた小さな御嶽神社がある。
庚申塔の先の右手筋からは大山が朝日を浴びてくっきりと聳えて見える。
この直ぐ先では、大山の左側に富士山も見ることが出来る。

矢倉沢往還碑 三島神社 永昌寺 東名高速道路
東名高速道路の高架の手前、左手筋の角に矢倉沢往還碑が建っている。
碑の右側面には、「江戸時代に江戸より武蔵と相模を横断していた街道に関東支配の重要性から、江戸と西とを境とする足柄上郡矢倉沢峠に関所が設置され、旅人・荷物等を検査した。この道を矢倉沢往還と呼称された。」 と刻まれている。
矢倉沢往還碑が建つ左手の筋を入ると、左手に三島神社がある。三島神社の創建年代等は不詳であるが、岡田村の鎮守で、祭神は事代主神である。岡田村は近世後期には、上岡田・下岡田の二村に分かれていたが、もとは一村であった。戦時中に供出された鐘は、元禄4年(1691)のもので、雨乞い祈願のために伊豆国三島神社を勧請したことが刻まれていた。境内には、水神社・天神社・稲荷社の石祠などがあfる。 東名高速道路高架の手前を右に入ると曹洞宗の岡田山永昌寺がある。
永昌寺の創建年代等は不詳であるが、別名鰻観音と呼ばれ、鰻を水神の使いとして崇めたと言われている。
境内には、元禄12年(1699)の石仏、三界万霊塔、地蔵菩薩などがある。
街道に戻って東名高速道路の高架下をくぐっていく。

長徳寺 法徳寺 道祖神 酒井寅薬師道標跡
東名高速道路の高架下をくぐると、直ぐ右手に浄土真宗本願寺派の寿永山慈雲院長徳寺がある。長徳寺は、寺伝によると平安時代末期の寿永2年(1183)僧浄光が真言宗の寺院として創建したと言われている。
御本尊は、戦国時代作といわれる阿弥陀如来立像で、聖徳太子立像も祀られている。境内には、日本庭園があり、池には緋鯉などが泳ぎ、筑山を中心に植栽が施されている。
続いて右手に浄土真宗本願寺派の知恩山高栄院法徳寺がある。
法徳寺は、永正元年(1504)教信により創建され、御本尊は阿弥陀如来立像である。本堂の裏側に墓地があり、本堂前には石造物等は見当たらないが、親鸞聖人像と立派な松の木が聳えている。
先に進むと相模川の支流(岡田用水堀)に架かる小さな橋の手前、左手筋入口に道祖神が建っている。
中央の新しいものは、その隣にある文化9年(1812)のレプリカと思われる。
道祖神から300mほど進んだT字路の左角に3基の石造物が建っている。大きい石塔の正面は全く判読できずはっきりしないが、右面は寛政、左面は講中などの文字が見える。ほかに五輪塔が2基並んでいる。
ここは八王子道と大山街道の交叉点で、かつて、ここに酒井寅薬師道道標が建っていた。現在、この道標は、薬師堂の脇に移設されている。

酒井寅薬師 法雲寺 新宿橋 道祖神
道標跡から西に進み、左手一本目の筋を左折すると、右手奥に酒井寅薬師がある。
酒井寅薬師の創建年代等は不詳であるが、薬師堂の本尊薬師如来像は、平安時代の高僧恵心僧都の作と伝えられている。
境内には、八王子道と大山街道の交差点にあった道標が移設されている。
酒井寅薬師の南側に隣接して浄土宗の来迎山勝長院法雲寺がある。
法雲寺は、天正の頃(1590代)の創建と言われ、山角次郎右衛門勝長が中興開基である。山角家は小田原北条氏の重臣であり、北条氏滅亡後は徳川氏に仕え、酒井村を中心に1200石を領していた。
境内には、山角家歴代墓所があり、宝篋印塔が並んでいる。
街道に戻って先に進み、酒井前田交差点を超えると、玉川に架かる新宿橋がある。
玉川は、厚木市と伊勢原市の境界付近に源を発し、途中、恩曽川を合わせ下流で相模川に合流している。
新宿橋の渡詰め右手の覆屋に、男女双体道祖神ほか五輪塔・馬頭観音・石碑などが安置されている。

小社 神社 道祖神 地蔵菩薩挫像
道祖神の先を200mほど進むと、右手の鉄材を納めた建屋の前に小社が建っている。 小社の直ぐ先右手に赤い鳥居が建ち、その奥に社殿があり、中に小社が二つ祀られている。稲荷神社と思われるが、狛狐も扁額も無く、よく分からない。 更に200mほど進んだ右手筋の入口に、覆屋に安置された道祖神・五輪塔がある。 道祖神の直ぐ先の水路脇に寛延元年(1748)の地蔵菩薩坐像がある。
この直ぐ先には、頭が欠けた地蔵菩薩立像があり、街道の行く手には大山が見えている。

小田原厚木道路 大山道碑 庚申塔 大厳寺
直ぐ先で小田原厚木道路(国道271号線)の高架をくぐっていく。
小田原厚木道路は、小田原から厚木市の東名高速道路厚木ICへ至る一般有料道路であり、総延長31.7㎞である。
小田原厚木道路の高架をくぐると、正面に大山が聳えており、そこから350mほど先の玉川橋の手前に大山道碑が建っている。
玉川橋の下の旧玉川は暗渠となっており、川の流れを確認することは出来ない。
玉川橋を渡るとT字路に突き当り、この右手に庚申塔・馬頭観音・五輪塔などの石造物が建っている。
この辺りは愛甲宿の中程に当たり、庚申塔は享保元年(1716)の道標を兼ねたものであり、「左大山道・右あつぎ江戸青山」 と刻まれている。
庚申塔のあるT字路を左折して直ぐ、右手の細い路地を入ると、段上に曹洞宗の中海山大厳寺がある。
大厳寺の創建年代等は不詳であるが、七沢広沢寺四世玄尭和尚が開山で、当初は片平にあったものを宝暦年間(1751-64)に当地へ移転したという。境内には、秋葉大権現があり、本堂裏の墓地からは、厚木市内が一望できる。

円光寺 笠付庚申塔 道標 愛甲石田駅
続いて右手に臨済宗建長寺派の西嶺山円光寺がある。円光寺の創建年代等は不詳であるが、鎌倉建長寺20世佛覚が開山で、その後久山長公が中興した。
山門は立派な楼門で観音像が祀られ、境内には愛甲三郎季隆の墓と伝わる宝篋印塔がある。この辺りは、愛甲氏の居宅跡で愛甲城があったとも言われている。
街道に戻り宿愛甲交差点で県道604号線に突き当たると、交差点の左角に天明元年(1781)の笠付庚申塔が建っている。
この庚申塔は、道標を兼ねており、「右大山道」 と刻まれている。
宿愛甲交差点を右折して直ぐ、左手の旧道l口に享保18年(1733)の道標が建っている。
道標には、「左大山道・右日向道」 と刻まれている。
道標を左に進んでいくと150mほど先で小田急小田原線の愛甲石田駅前に出る。
駅前ロータリー周辺は、道路整備や共同住宅の建設に先立つ発掘調査で、弥生時代から中世までの遺跡が密集していたことが判明しており、石田遺跡群の解説版が建っている。

国道合流 子安神社 浄心寺 割地坂
愛甲石田駅を通過して小田急小田原線の愛甲石田1号踏切を渡ると、国道246号線に合流する。 国道246号線に合流して直ぐ、次の信号を左折して再び小田急小田原線を渡ると、右手筋に子安神社がある。
子安神社の創建年代等は不詳であるが、平安時代末期以前と考えられている。ご祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の夫婦神であり、境内には津島天王・大神宮・稲荷社などの石祠のほか、明治から大正時代と推定される道標がある。
街道に戻って進むと右手に浄土宗の栖岸山浄心寺がある。
浄心寺は、天正2年(1574)に開山された寺院と言われるが、詳細は不明である。
山門は茅葺屋根で趣があり、本堂の前には二本の木が聳えている。境内には不明な御堂があり、手前に南無阿弥陀仏名号碑が建っている。
浄真寺を過ぎると緩やかな下り坂となり、石田交差点のこところから先は、割地坂と呼ばれる上り坂となる。この付近は、道路わきから水が湧き出し、ぬかるんでいたため荷を背負った馬が足を踏ん張り、オナラをしながら歩いたので「へっぴり坂」とも呼ばれていた。
ここから先の旧道は、宅地等により消滅しているため、石田交差点から左に進んで、長龍寺、小金神社を経由して迂回して行く。

長龍寺 小金神社 鶴駕行啓之所碑 道標
石田交差点を左に200mほど進んだところで、左手を走る小田急小田原線を渡り、道なりに150mほど進むと右手坂上に浄土真宗本願寺派の金林山長龍寺がある。長龍寺の創建年代等は不詳であるが、本堂落慶之碑には、慶安2年(1649)徳川家光より寺領10石のご朱印を賜り、その後、天保年間(1830-43)に火災に遭い、寺宝古文書過去帳などを焼失した旨が刻まれている。 長龍寺本堂の裏山に小金神社がある。
この小山は小金塚古墳といい、直径45m、高さ6mの円墳で、小金神社はこの頭頂部に鎮座している。周りの溝からは4世紀末(古墳時代前期)頃の埴輪が出土しており、古墳の東側には弥生時代中期から後期の集落跡が見つかっている。境内には鐘楼があり、享保2年(1717)に造られたものは戦時供出に遭い、現在の鐘は平成11年に鋳造されたという。
小金神社の前の民家脇に鶴駕行啓之所碑が建っている。大正10年(1921)11月、この地で陸軍大演習が行われた際、皇太子(後の昭和天皇)が視察した場所である。
鶴駕とは、皇太子が乗る車のことをいう。
小金神社の鳥居の前から畑の中の土道を進み、小田急小田原線の脇に出て100mほど先で横断すると、十字路の右角に小さな道標が建っている。道標は風化が進んで正面は剥がれているが、右面にjは 「本厚木町ニ至ル」、裏面に 「昭和3年9月小金町青年団」 と刻まれている。

白金地蔵尊 歌川橋 成瀬小入口交差点 道祖神
道標を左に進み、左手の伊勢原市立成瀬小学校の脇を通っていくと、その先のT字路に突き当たる手前右手に白金地蔵尊がある。
石田交差点の先で消滅した旧道は、この辺りに抜けていた。
この地蔵尊は、万延元年(1860)この地の住人茂田半左エ門が、子宝を祈願して建立したものである。
白金地蔵尊の先でT字路に突き当たり、ここを左折して行くと歌川に加かる歌川橋がある。
歌川橋の上流方向には、大山が見えている。
歌川橋を渡ると県道22号線の成瀬小入口交差点があり、幅広の道路は横断歩道橋で渡っていく。 成瀬小入口交差点の先は上り坂の道となり、途中、左手に道祖神が祀られている。
道祖神の周囲には、馬頭観音、五輪塔、頭部が欠けた地蔵菩薩などがある。

糟屋宿 普済寺 大慈寺 太田道灌の墓
道祖神の先でT字路に突き当たり、右に進んで糟屋宿へ入っていく。
糟屋宿は、江戸から15里の地点にあり、大山詣や物資の運搬で賑わっていた。また、ここはT字路左から柏尾道が合流する地点でもある。柏尾道は、横浜市戸塚の柏尾不動尊から大山へ向かう総距離38.8㎞の道である。
T字路から150mほど進むと、右手に臨済宗建長寺派千秋山普済寺がある。
普済寺は、上杉寺月鑑名公が開基、節翁中勵が開山となり、慶安元年(1648)に寺領10石の御朱印状を賜ったという。
境内には、神宮寺から移設された高さ6mを超える多宝塔が建っており、墓地の先には大山がどっしと構えている。
街道に戻って100mほど進んだ信号交差点を左に入り、渋田川に架かる道灌橋を渡ると、左手に臨済宗建長寺派の法雨山大慈寺がある。大慈寺は、覚智が鎌倉に開山した扇谷上杉氏の氏寺建徳寺が始まりで、太田道灌が中興開基となり、その後、親戚の建長寺住職周源を中興開山として、当地へ移転したという。 道灌橋から渋田川堤を100mほど上流に進むと、太田道灌の墓がある。
墓は小さな宝篋印塔と五輪塔からなり、首塚と呼ばれている。
道灌は、文武両道に秀でたため、上杉家宗家の山内上杉顕定の讒言により、主君の上杉定正によって暗殺されてしまった。

南蓮寺 高部屋神社 道祖神 笠付庚申塔
太田道灌の墓の渋田川を挟んだ向かい側に浄土宗の東台山西光院南蓮寺がある。
南蓮寺は、南蓮社忍誉西光恵慶上人が開山となり創建されたという。
ご本尊は阿弥陀如来像で、境内には青銅製の聖観音菩薩立像、青銅製燈籠などがある。
街道に戻って下糟屋公会堂を過ぎると、右手に高部屋神社がある。高部屋神社の創建年代等は不詳であるが、相模国13座の一つで大住郡127ヶ村の惣社と言われていた。この地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が後北条氏の滅亡まで、社地の続きに存在が認められた。
境内には、県重要文化財に指定された至徳3年(1386)の銅鐘のほか、八坂神社・金刀比羅宮などの境内社がある。
高部屋神社の先で国道246号線の下糟屋交差点を渡ると、左手に道祖神が建っている。
ここには嘉永3年(1850)の道祖神、頭が欠けた男女双体道祖神、五輪塔が3基安置されている。
直ぐ先のY字路の斜面に、三猿が刻まれた寛文2年(1662)の笠付庚申塔が建っている。
裏面には、六蔵?九右衛門?粂七?などの名が刻まれており、伊勢原市最古の庚申塔の一つと言われている。

咳止地蔵尊 菅原神社 耕雲寺 旧道口
笠付庚申塔の前を左に進んで行くと渋田川に突き当たり、その手前の旧道痕を入っていくと咳止地蔵尊がある。
現在の地蔵菩薩坐像は、享保年(1723)の再建で、台座は慶応3年(1867)のものである。
地蔵堂の前には、大山道道標、頭部が欠けた地蔵菩薩などの石造物がある。現在、咳止地蔵尊の先に橋は無いので、手前の市米橋で迂回して行く。
市米橋を渡ると、大山街道はここで矢倉沢往還と分かれて右に進むが、市米橋交差点を左に100mほど進むと、左手に菅原神社がある。
菅原神社の創建年代は不詳であるが、この地は昔から天神山と言われ、小さな丘に祠が祀られていたという。延宝6年(1678)の書物によると十二柱神社に次いで建てられたと云われている。境内には、句碑(不詳)が2基建っている。
市米橋交差点から矢倉沢往還を少し入ると、右手に臨済宗建長寺派の田中山耕雲寺がある。耕雲寺は、享禄元年(1528)徳雲碩長が開山創建したと言われている。
境内には、大慈悲堂(観音堂)、地蔵菩薩立像がある。また、場所は分からなかったが、咳止地蔵尊のところにあった道標を兼ねた庚申塔が安置されている。
市米橋交差点から100mほど進むと、咳止地蔵尊からの延長線上に旧道口がある。
この旧道は、先の三軒茶屋跡まで300mほどであるが、畑の間を通り、往時を偲ばせる道である。

三軒茶屋跡 大山街道道標 東名高速道路 男女双体道祖神
街道を進むと右手に三軒茶屋跡があり、大山街道道標と三軒茶屋跡解説が建っている。
ここは、咳止地蔵尊前の道から続く大山道と平塚、金目観音、伊勢原方向からの道が交差する場所であった。
笠直ぐ先で八王子大山道を越え、峰岸団地内の足立岡公園前を通ると、その先のY字路にある民家の鉄柵に大山街道道標がある。
街道は、ここを左に進んで行く。
どんどん先に進むと、東名高速道に突き当たり、左に40mほど進んだところで東名高速道路の下を抜けて行く。 東名高速道を抜けると、左手に男女双体道祖神と五輪塔が建っている。
男女双体道祖神の台座には、「右いいやまみち」 「左ひなたみち」 「明和9年(1772)正月吉日」 「七五三引村(しめひきむら)」 と刻まれている。

千石堰用水の道 三所石橋造立供養塔 金光寺 洞昌院
男女双体道祖神から先は、千石堰用水に沿った上り道となる。
この用水路は、子易明神社の左斜めの大山道から取水して、下糟屋の渋田川へ流れる灌漑用水である。
千石堰用水脇の道を進むと、程なく右手に三所石橋造立供養塔が建っている。
この供養塔は、この場所とこの付近に架けられた三ヶ所の石橋を供養するために、享和2年(1802)に洞昌院住職と村人達によって建立されたものである。
街道は千石堰用水に沿って上っていくが、三所石橋造立供養塔を左折すると、右手に曹洞宗の金光寺がある。
金光寺の創建年代等は不詳であるが、境内には享保5年(1720)の岩船地蔵尊、明和6年(1769)の廻国供養塔、天保10年(1839)の馬頭観音などがある。
更に三所石橋造立供養塔を右折すると、左手筋の突き当りに曹洞宗の蟠龍山公所寺洞昌院がある。洞昌院は、太田道灌を開基とし、崇旭が開山となり創建したと言われている。
境内には、太田道灌公霊廟、吉祥尊殿のほか、道標を兼ねた観音巡礼塔などがある。

太田道灌公の墓 七人塚 上粕屋神社 道標
洞昌院の裏手に太田道灌公の墓がある。
太田道灌は江戸城を築いたことで知らfれ、文武両道を備えた武将であり、晩年はその才能を恐れた主君上杉定正により暗殺された。
大慈寺近くにあるのが首塚と言われ、ここにある宝篋印塔は胴塚といわれている
一帯には、たくさんの石仏や石碑がある、
大田道灌公の墓の前から大山が見える筋を100mほど進むと十字路角に七人塚がある。
この塚は、太田道灌が主君上杉定正に暗殺されたとき、最後まで上杉方の攻撃を一手に引き受け討死した7人の墓と言われている。
この塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に7つ並んでいたうちの一つである。
七人塚の直ぐ北側に上粕屋神社がある。
上粕屋神社の創建年代は不詳であるが、天平年間(8世紀半ば)に大山寺を開山した僧良弁が創建したとも伝えられている。
江戸時代には山王権現と呼ばれていたが、明治以降日枝神社と称し、昭和に至り御嶽神社・熊野神社・御霊神社を合祀し、上粕屋神社と改称した。参道には、推定樹齢600年を超すケヤキの大木などが立っている。
上粕屋神社から旧道に戻ると、千石堰用水路脇に寛政11年(1799)の道標、享保6年(1721)の庚申塔、道祖神が建っている。

庚申塔 石倉橋 石倉不動堂 道標
道標から100mほど進むと、千石堰用水路の左側に庚申塔が建っている。
解説板によるとこの庚申塔は、伊勢原市三ノ宮竹ノ内591番地の田中家の敷地にあったが、道路造成用地となったため、田中家所有のこの土地に移設されたものだという。
先に進んでT字路を左に曲がると、県道611線に合流する。
ここ石倉橋は、多くの大山道が合流する地点であり、かつてここには不動明王像を載せた道標があったが、現在は鈴川(大山川)の脇に移設されている。
石倉橋交差点から70~80mほど先右手に石倉不動堂がある。石倉不動堂の創建年代は定かではないが、江戸時代に造られた腰掛不動(不動明王)が祀られている。
御堂の手前には、庚申塔、地蔵菩薩坐像、石燈籠などの石造物がある。
街道に戻って直ぐ、左手筋を入っていくと鈴川(大山川)の脇に鉄パイプで覆われた道標が建っている。この道標は、かつて石倉橋交差点近くにあったもので、正面に 「左戸田・あつぎ・青山道」、右面に 「右い世原・田むら・江乃島道」、裏面に 「此の方ひらつか道」 と刻まれている。左面は見ることが出来ない。
また周囲には、男女双体道祖神、馬頭観世音、大乗妙典供養塔などがある。

石倉神社 道祖神 比比多神社 宗源寺
街道に戻って進み石倉交差点を右折すると、左手段上に石倉神社がある。
石倉神社の由緒は定かではないが、かつてこの地にあった五霊神社をここに祀ってあるという。境内には、昭和2年(1927)の鉄製の鳥居、大正11年(1922)の手水石のほか、社殿奥に墓石などが並んでいる。
街道に戻って先に進むと、新東名高速道路の建設工事中の先の右手に道祖神が祀られており、道祖神の両脇に五輪塔が建っている。 道祖神の直ぐ先に比比多神社がある。
比比多神社の創建年代は不詳であるが、天平年間(729-49)に建てられたと言われる古社であり、寛文2年(1662)修築、享保2年(1717)再建され、安産の神様として知られ、子易明神とも呼ばれている。
境内には、八雲社・日吉山王宮・熊野社・稲荷社・淡島社・天満宮の境内社のほか、推定樹齢1000年以上のケヤキの大木がある。
比比多神社の本殿裏から右手の筋を登った山上に曹洞宗の招宝山宗源寺がある。
参道口に庚申塔があり、坂道の途中に寺標を兼ねた地蔵尊が祀られている。宗源寺の創建年代等は不詳であるが、境内には阿弥陀堂があり、阿弥陀如来坐像が祀られている。

易往寺 比々多神社 這子坂 諏訪神社
街道は次第に急坂となり、街道が左に分かれる右手筋に浄土宗の一道山地蔵院易往寺がある。易往寺は、元慶3年(879)関東一帯を襲った大地震により大山寺への参拝が困難になった際、大山寺を開山した良弁僧正の孫弟子にあたる弁真和尚が、大山寺の大山不動の仮安置所として建立したと言われている。
境内には六地蔵石幢に乗った地蔵菩薩坐像、子安地蔵尊(地蔵菩薩坐像)などがある。、
易往寺の手前を左に曲がると、左手の子易児童館脇に再び比々多神社がある。
ここは子易下地区で、明治時代に比比多神社から勧請して独自の神催事を行ったという。
社殿脇には、かなり傷んだ石祠が安置されている。
比々多神社の先で右に曲がると、それほど急坂ではない這子坂である。
往時は名前の通り、這って登るほどの急坂だったと言われている。
坂の途中に這子坂碑のほか、地蔵尊・水神が祀られている。
這子坂を上り詰めると、先ほど易往寺前で分かれた道に合流し、そこからはかなり急勾配の坂道となり、500mほど上った左手段上に諏訪神社がある。諏訪神社は、当初個人が管理する神社だったが、その後、子易上地区の氏神として祀ることにしたと言われている。
鳥居脇には御神木の樫の巨木があり、境内に稲荷社・道祖神が祀られている。

三の鳥居 小社 宿坊 新玉橋
諏訪神社を過ぎると街道を跨ぐ大きな阿夫利神社の三の鳥居が建っている。この辺りは標高180mであり、この三の鳥居は江戸の火消し 「せ組」 が建立したもので、傍らに 「鳥居永代修繕料金五百円・昭和9年せ組」 と刻まれた奉納碑が建っている。
一の鳥居は伊勢原駅に、二の鳥居は東名高速道路を越えたところにある。
直ぐ先の細い沢に架かる二ツ橋を渡ると、右手の筋入口(民家の庭先と思える所)に小社と道祖神らしき石塔が建っている。 二ツ橋を渡ると様々な名称の坊・宿坊や先導師を示す看板が掛けられた家が建っている。
先導師は信仰を広めるとともに、信者が阿夫利神社や大山寺へ参詣する前にお籠りをするための宿を提供した。
宿坊には、登山記念碑、参拝記念碑などいろいろな石碑が建てられている。
先に進むと鈴川(大山川)に掛かる新玉橋があり、渡り詰めから更に急勾配の道となる。
鈴川は、大山の南東斜面に源を発し、始めは大山川と呼ばれ、伊勢原市の串橋からは鈴川と名付けられている。平塚市の南原で渋田川に合流し、その後、金目川に合流し相模湾に注いでいる。

丹沢大山国定公園ゲート 加寿美橋 阿夫利神社社務局 愛宕橋
新玉橋を渡りT字路突き当りを右折すると、大山公民館の前に道路を跨ぐ丹沢大山国定公園の大きなゲートがある。
ここから更に急勾配の道となっていき、両側には、旅館や宿坊などが軒を並べるようになる。時間は14時を過ぎたところであるが、陽は山の端に入り急に冷え込んできた。
街道左手の小さな稲荷神社の斜向かいに加寿美橋がある。
ここで鈴川(大山川)を渡り、県道611号線と分かれて旧道に入っていくが、この旧道は先の愛宕橋で再び県道に合流する。
加寿美橋を渡り先に進むと、右手に阿夫利神社社務局がある。
ここでは身体が不自由な方や、下社まで登れない方が御祈祷を受けることが出来る。
また車のお祓いも出来る。毎年、8月27日から2日間、本社から祭神を迎えて秋季例大祭が行われ、10月には火祭薪能が開催され、能楽堂では能と狂言が演じられる。
街道は突き当りの愛宕橋を渡って、再び県道611号線に合流する。
愛宕橋の袂には、落差5mの愛宕滝があり、その脇に火伏の神である愛宕社と酒の神である松尾社が祀られている。愛宕滝は、大山詣での参拝者が登拝前の禊として身を清めた大山6滝の一つである。

急坂 良弁滝 豆腐坂 阿夫利神社御神燈
愛宕橋を渡ると直線の急坂が大山に向かって延びている。
道の両側には、相変わらず坊・宿坊などが建ち並んでおり、左手には明和2年(1765)の不動明王像を祀った小社がある。
急坂を進むと右手に木鑓塚と良弁滝碑があり、その脇を通り鈴川(大山川)を渡ると、良弁滝と開山堂がある。
良弁滝は禊の滝の一つであり、開山堂は良弁堂とも呼ばれ大山を開いた良弁僧正ゆかりの御堂である。また開山堂の右手は権田公園となっており、幕末から明治初期の国学者で阿夫利神社の長に任ぜられた権田直助の墓がある。
街道に戻ると左手の水島旅館のところから、県道と分かれて豆腐坂が大山に向かっている。
江戸時代より参拝者たちが、豆腐を手のひらにに乗せて、すすりながらこの坂道を登ったことから 「豆腐坂」 の名がついたという。
この道は昔ながらのたたずまいが数多く見られる参道である。
豆腐坂を上り詰め千代見橋を渡ると、阿夫利神社御神燈が建っている。
今回はここで終了し、大山ケーブルバス停から神奈川中央交通のバスで伊勢原駅に出て帰宅の途に就いた。

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