この多宝塔は、今からおよそ200年前、幕府の命令により、この地の禅僧が未開の北海道へ派遣され、苦難を重ねて民主の安定につとめ、使命を果たして帰ってきたのち、北辺の地の安泰を祈願して建てたものです。
文化元年(1804)、徳川幕府は北方防備の鎮めとして、蝦夷地に三官寺(有珠の善光寺・様似の等寿院・厚岸の国泰寺)を創建しました。この塔は、国泰寺の五代目住職となった文道玄宗が、7年の任期を終えて、下糟屋の神宮寺へ帰山後、天保9年(1838)に建立したものです。 当時、江戸から厚岸までの道程は約3ヶ月を要する苦難の旅でした。さらに国泰寺の持場は、襟裳岬の東から国後、択捉に亘る広大な地域で、年一回の廻勤の義務が課せられていました。塔の四面には
「松前家諸士庶民一統名簿」 として寄進者700余名の名と共に、国後、択捉、ネモロ、厚岸、クスリ、十勝の六ケ所等の地名が刻まれています。
銘文は、鎌倉建長寺の真浄元苗により、北辺の当時の状況が記され、「民安らかに国泰く鎮護万年」 との結びは、国泰寺に課せられていた重い使命を物語っています。
現在、市内にある石造物では、極めて豪壮屈指のもので、伊豆石を用い、石工は武州登戸(川崎市)の吉沢光信が当たりました。
明治に初め、神仏分離令による神宮寺の廃寺に伴い、その滅失を惜しんだ地元の人々によって、ここ普済寺に移築されました。
なお、田中にある耕雲寺住職松堂玄林は、国泰寺執事として、文道玄宗と行を共にし、その克明に記録された 「国泰寺日鑑記」 は、現在北海道の重要文化財に指定されて国泰寺に、また廻勤地の詳細な地図が耕雲寺に保管されています。
石造多宝塔解説
石造多宝塔
墓地の先に見える大山
普済寺本堂
普済寺寺標
普済寺山門
大般若経塔
六地蔵尊