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大山街道   (鶴間~本厚木


平成30年12月18日(火)   ☀    鶴間~本厚木    12.8㎞
前回(11/26)鶴間の手前で突然左肩が傷み、翌日・翌々日と検査をして頚椎症性神経根症と診断され、3週間ほど痛み止めと筋肉弛緩剤など数種類の薬を飲み続け、少し痛みが和らいできたので、暖かく天気が良い日が2~3日続くというので、この日を逃すまいと前回の続きを行うこととした。

鶴間駅 矢倉沢往還碑 矢倉沢往還碑 道標
午前6時前に家を出て、6時30分には小田急線に乗ったが、下り方向で空いているかと思ったが、意外と混み合っていた。
鶴間駅を降りると目の前は、大山街道である。
鶴間駅から西鶴間交差点を越えた右手の歩道上に矢倉沢往還碑が建っており、次のように刻まれている。
「この道路は矢倉沢往還と呼ばれた古道であり、江戸時代には東海道の脇往還として重要な交通路となっていました。東京都港区青山を起点とし南足柄市関本・矢倉沢・足柄峠へと至る街道です。また、大山街道とも呼ばれ、江戸時代中期以降は大山信仰や富士信仰の行者が利用する道として栄えました。」
通づいて左手の西つるま保育園前の歩道上に同じ矢倉沢往還碑があり、その直ぐ先の横断歩道橋下に石板状の矢倉沢往還碑が建っている。
ここには矢倉沢往還地図とともに、前にあった矢倉沢往還碑と同じ文面が刻まれたプレートが貼られている。
先に進むと大和斎場入口交差点の左手に、鶴間駅と泉の森を示す道標が建っている。
泉の森は、引地川の水源地を中心に、国道246号線を挟むように整備された広大な公園である。
園内には、湿性植物園、郷土民家園、ふれあいキャンプ場、自然観察センターなどがある。

西鶴寺 旧街道 道標 大山街道碑
大和斎場入口交差点の右手筋から旧街道が南西に延びており、この入口に日蓮宗の蓮華寺別院西鶴寺がある。
西鶴寺の創建年代等は不詳であるが、本堂は街道に面して建っており、西鶴寺の脇には矢倉沢往還碑が建っている。
西鶴寺の先の街道は、350mほど先で国道246号線で分断され、左右いずれかに進んで迂回して横断することとなる。 国道246号線を迂回して横断し、旧道に復帰して150mほど進むと、五差路の右手筋角に道標が建っている。
この道標は、大山街道と辰街道が交差するところに建っている。
直線の道を600mほど進むと、さがみ野二丁目交差点の右角に平成2年建立の大山街道碑が建っており、碑の右面には、次のように刻まれている。この道は大山に詣でるために江戸時代から多くの人が行き交ったそうです。そして、東京の青山から発することから 「青山街道」、「矢倉沢往還」 とも言われ、また、厚木を通過していることから 「厚木街道」 とも呼ばれました。

さがみ野仲よし小道標柱 相鉄線踏切 記念碑 大山
続いて次のさがみ野駅入口交差点の右角に 「大山街道とさがみ野仲よし小道」 標柱が建っている。さがみ野仲よし小道は、太平洋戦争後に整備された 「畑地灌漑用水路」 の跡地を整備して作られた散策路である。 先に進み、さがみ野1号踏切で相模鉄道本線を渡ると、かつての 「大塚宿」 である。
往時は旅籠・木賃宿・商店などが立ち並び、賑わっていたというが、現在は全くその面影はない。
先に進んで大塚本町交差点を渡ると、左手の横断歩道橋脇に昭和9年(1934)の記念碑が建っている。
この記念碑は、皇太子殿下御誕生記念大塚改修新道と刻まれ、第125代天皇(今上天皇)の御誕生を記念して建立されたものである。
緩やかな上り坂を進み、その先で次第に下り坂になると、右手の湘陽かしわ台病院の脇から大山が遠望できる。

富士塚・庚申塔 赤坂石造物 渡辺崋山ゆかりの道 望地
先に進み右手のかしわ台動物病院の脇の細い筋を250mほど西に入ると、十字路角のやや盛土されたところに庚申塔・手水石がある。
盛土は富士山の大噴火によってこの辺りに積もった火山灰を集めて造られた富士塚であり、この庚申塔は、文化13年(1816)柏ヶ谷の人々が建立したもので道標を兼ねている。
街道に戻ると左手の赤坂バス停脇に不動明王坐像を中心として数基の石造物が並んでいる。いずれも風化が進んでおり、何とか判読できるものが道標で、「左大塚鶴間、右国分」 と刻まれている。 直ぐ先の左手筋入口脇に渡辺崋山ゆかりの道解説板が建っている。
解説によると、ここから右手に向かう道は、古東海道とのいい伝えがあり、天保2年(1831)渡辺崋山は、絵の弟子高木梧庵を伴って江戸から大山街道を下り、この古道から小園村に入り少年期に世話になった「あこがれのお銀さま」 を訪ねたという。ここには細い石柱の道標が建っている。
先に進むと県道40号線の望地交差点に突き当たり、ここからは大山を望むことが出来る。
望地の地名の由来は、相模国分寺を望むことが出来るところだからと言われている。
街道は望地交差点を横断して、延長線上の坂道を進んでいく。

旧道口 地蔵菩薩 道祖神 目久尻橋
望地交差点を横断すると、南に上っていく坂道があり、坂を上り詰めて右に曲がると左手に望地道下児童公園がある。
公園からは前に遮る建物もなく、大山を遠望することが出来る。
望地道下児童公園脇から坂道を下っていくと、左手に地蔵菩薩が建っている。 地蔵菩薩の先の突き当りを右に進むと、右手の石垣前に天保14年(1843)の道祖神と五輪塔が2基並んでいる。
この石垣の奥は東福寺跡であるが、現在は宅地となっている。むかしこの地に寺を建てようとした僧侶が、相模国分寺の僧侶と連れ立って、国分寺の見えるこの地に寺を建てることになったという。望地の名はここが相模国分寺を望める地だったことに由来するという。
道祖神の先で右から回り込んできた県道40号線に突き当たり、その先の旧道は消滅しているため、目久尻川に架かる目久尻橋で迂回していく。
目久尻川は、相模原市の相武台団地付近に源を発し、下流で相模川に合流している。目久尻川の名の由来は、御厨尻川が転じたという説と、悪さをするカッパの目を抉り取ってしまった目穹川が転じたという説がある。

石橋供養塔 旧道口 道祖神 逆川碑
目久尻橋の渡詰めを右折すると、消滅した旧道の延長線上にあたる川沿いに、文化10年(1813)の石橋供養塔が建っている。
この供養塔は、宝暦7年(1757)石橋に造り替えるための募金活動をした地元の恩人重田七三郎の功績を称えるために建てられたものである。
石橋供養塔の向いに伊勢山自然公園に突き当たる旧道口がある。 伊勢山自然公園前を左折して県道40号線の伊勢山公園前交差点に出ると、左角に道祖神などの石造物が並んでいる。 伊勢山自然公園前交差点のY字路中央に逆川碑が建っている。逆川は、日本で最も古い運河と伝えられており、目久尻川から人の手によって水路を造り、水を低い土地から高い土地へ流したことから、逆川の名が付いたと言われている。
ここには、史跡逆川碑のほか、逆川由来碑などがある。

伊勢山大神宮 地蔵堂 堂坂 国分寺
逆川碑の先のY字路を右に進むと、右手の伊勢山自然公園の高台に伊勢山大神宮がある。伊勢山大神宮の創建年代等は不詳であるが、境内には、寛政9年(1797)の地神塔がある。 街道に戻ってY字路を左に進むと、右手に地蔵堂があり、風化した地蔵尊が安置されている。地蔵堂の奥の駐車場となっているところが、目久尻川に石橋を架けることに尽力した重田七三郎の生家跡である。 地蔵堂から坂道を上り詰めたT]字路交差点の左手の坂道が堂坂である。
かつてこの坂の上に旧国分寺の薬師堂があったというが、現在、遺構等は残っていない。また薬師堂の裏手(西側)に墓地があるが、その近くに 「尼の泣き水」 と呼ばれた湧水があり、国分寺に火をつけて、のこぎりで首を斬られた尼を弔う如意観音が建っていたという。現在、如意輪観音は、現在の国分寺境内に安置されている。
尼の泣き水跡から下っていくと切通に架かる橋があり、渡詰め右手に高野山真言宗の東光山醫王院国分寺がある。
国分寺は、聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、相模国分寺の後継寺院である。境内には、国の重要文化財に指定されている正応5年(1292)の梵鐘、尼の泣き水跡にあった如意輪観音などがある。

大ケヤキ 相模国分寺跡 七重塔 海老名跨線橋
国分寺から街道に出ると、街道の左側に推定樹齢560年を超える大ケヤキが聳えている。
このケヤキは、かつてこの辺りが海だった頃、漁師が舟をつなぐ杭として打ち込んだものが発芽して大きくなり、以来、人々が保護し育ててきたものと言われている。
根回り15.3m、目通り7.5m、樹高20mに達する大木である。
大ケヤキの北側に延びる筋を150mほど入ると、右手に相模国分寺跡がある。
寺域は東西240m、南北300mと言われ、南の中門から正面に講堂、右側に金堂、左側に高さ65mの七重塔があったという。七重塔は、海老名駅近くの中央公園に実物大の約1/3スケールで復元されている。
現在、国分寺跡は歴史公園として整備され、伽藍の基壇や相坊跡の平面形が復元されている。
街道に戻って進み、県道40号線に合流して西に進むと、右手の複合商業施設ビナウォークの中央公園に、相模国分寺の七重塔が実物大の約1/3スケールで復元されている。 街道に戻って海老名駅入口交差点を過ぎると、小田急小田原線を海老名跨線橋で渡っていく。
跨線橋のアプローチ部分には、様々なレリーフが埋め込まれており、跨線橋からは大山が正面に見える。

相模線 旧道口 歴史資料収蔵館 八王子道合流
海老名跨線橋を渡ると、右手に海老名市文化会館、海老名市立中央図書館があり、その先で相模線の相模国分4号踏切を渡っていく。
この辺りは、海老名耕地と呼ばれ、今から1300年も前の区画整理(条里制)によって水田が長方形に整理された名残がある。この区画の東西の長さの基準線になったのが一大縄(いちおうな)である。
河原口交差点を超えて、右手に東京靴流通センターを見て進み、その先のクリーニングネオ21海老名河原口店の角を左に入るのが旧道である。ここは河原口の七曲りと言われ、旧道口から左折、右折、左折、右折、左折、右折と繰り返していく。 旧道に入って最初の筋を右折すると、左手に海老名市歴史資料収蔵館があり、ここを左折し、すぐ右手筋を右折して行く。
歴史資料収蔵館前には、大山道解説の立札が建っており、右折箇所には庚申塔が建っている。
庚申塔の前を右折すると、右手から来る八王子道が合流する。
八王子道は、中山道の熊谷から分岐して八王子を経由し、橋本あたりで何本かに枝分かれしているが、その内の一本がここで合流している。
大山街道は、ここを左折して、その先でもう一度右折する。

神武社 海老名氏霊堂 石造物 総持院
右手から来る八王子道に少し踏み込んでみると、右手に神武社がある。
神武社は、有鹿神社の境外神社二社のうちの一社となっており、公園内に鳥居があり、その奥に拝殿がひっそりと建っている。
なお、もう一つ有鹿神社の境外社は、有鹿小学校を挟んだ東側にある三王三柱神社である。
更に八王子道を北に進み、一本目の筋を右折すると、左手奥に海老名氏の霊堂がある。
海老名氏は、村上源氏の流れを汲む武蔵横山党の一族と言われるが、一般的には横山党の横山盛兼の子季兼を、源有兼が養子に迎えたという。その後、海老名氏は、萩野氏・小野氏・本間氏・国府氏などに分家し、そのうち海老名家季は、播磨国那波に移住し、播州海老名氏の祖となっている。堂内には宝篋印塔・五輪塔が安置されている。
八王子道を更に進むと、T字路右角に寛政6年(1794)の松尾大明神と刻まれた庚申塔・双体道祖神・風化した笠付庚申塔・小さな道標などの石造物がある。 石造物の直ぐ先左手に高野山真言宗の海老名山満蔵寺総持院がある。
総持院は、有鹿神社の別当として天平勝宝6年(754)に創建され、天正19年(1591)には徳川家康より寺領10石の御朱印状を賜っている。
本尊は、室町時代末期の木造虚空蔵菩薩坐像で、境内には、東大寺型八角大燈籠・水子地蔵尊・明暦4年(1658)の子育地蔵尊などがある。

相模川へ あゆみ橋 じょう橋碑 厚木の渡し跡
大山街道に戻って七曲り最後の右折をすると、相模川に突き当たり、正面に大山が見える。この先は、かつての厚木の渡しであり、現在は、堤防を左折してあゆみ橋で相模川を渡っていく。 相模川を渡るには、相模大橋とあゆみ橋のいずれかであるが、厚木の渡しに近い上流側のあゆみ橋で渡ることとした。
相模川は、山梨県の山中湖を水源とし、途中、相模湖と津久井湖の2つのダム湖を経て、下流で相模湾に注いでいる。
あゆみ橋の渡詰めを右に30mほど進むと、相模川を向いて 「じょう橋」 碑が建っている。
碑には、「相模橋のことを言う。れっきとした名前がありながら、庶民の思いにより愛称されたじょう橋。昔は渡船で渡ったが、明治末期に常設橋が架かり、常に在る橋、常に渡れる待望の橋、そんな思いから自然に言い伝わってきたロマンを秘めた橋。現在はあゆみ橋。」 と刻まれている。
じょう橋碑の先を200mほど上流に進むと、左手に厚木の渡し跡がある。
この地は、矢倉沢往還や藤沢道、八王子道が相模川を渡る渡船場であった。ここには厚木村渡船場跡解説のほか、渡辺崋山来遊記念碑などが建っている。

厚木神社 烏山藩陣屋跡 渡辺崋山滞留の地碑 最勝寺
厚木の渡し跡から街道(県道601号線)を南に進み、東町郵便局前交差点を渡ると、左手に厚木神社がある。厚木神社は、天延年間(973-76)太政大臣藤原伊尹が創建したと言われているが、定かではない。鎌倉時代には那須与一が眼病平癒祈願をした伝説や、下野国烏山藩の陣屋が設けられた事等から、厚木草創期より政治・経済の中心地として栄えていたことが分かる。境内には、稲荷神社・水神宮のほか、水月庵来之の作と言われる句碑がある。 厚木神社左の道路を挟んだマンション敷地の一角に烏山藩陣屋跡がある。
ここには史跡烏山藩厚木役所跡碑と関東大震災記念碑 「あゝ九月一日」 が建っている。

厚木宿は、八王子道や相模川の物流など交通の中心として賑わっていた。厚木の渡し跡から上町、そこから南へ中宿・下宿と続いており、宿は烏山藩厚木役所を中心に多くの商家・民家が続き、小江戸とも呼ばれた。
街道に戻ると歩道脇に渡辺崋山滞留の地碑が建っている。
ここは渡辺崋山が、天保2年(1831)9月22日から24日にかけて宿泊した旅籠萬年屋古郡平兵衛の屋敷跡である。崋山は滞在中、厚木の著名人と交流を深め、当時の厚木の景勝を描いた 「厚木六勝」 を残している。
直ぐ先で小田急小田原線の高架をくぐり、その先で旭町三丁目交差点を渡ると、右手に曹洞宗の金光山最勝寺がある。
最勝寺の創建年代等は不詳であるが、かつて全国に建立された金光明最勝王経輪読の寺院の一つではないかと言われている。山門は閉ざされており、境内に踏み入ることは出来なかった。

熊野神社 智音神社 馬頭観世音 旧道口
最勝寺の直ぐ先、右手に熊野神社がある。
熊野神社の創建年代等は不詳であるが、寛元元年(1243)に相模国愛甲庄が熊野山領となっており、厚木の総鎮守であったと言われている。往時は、熊野森と呼ばれた広い境内で、渡辺崋山の厚木六勝の一つに描かれている。
大正末期に御神木のイチョウを残して全て伐採されてしまい、
現在、社殿脇に推定樹齢450年、幹周り3mの大イチョウが残っている。
続いて右手筋奥に智音神社がある。
智音神社の創建年代等は不詳であるが、境内奥には墓地があり、明治の廃仏毀釈により寺を廃業し、神社になったという。
境内には鬼子母神堂があり、高部源兵衛という呉服商が、現旭町4町目付近に建てたものを、何時かははっきりしないが、智音寺の境内に移設したものだという。
街道に戻ると左手の旧道口の手前に馬頭観世音碑が建っている。 馬頭観世音碑のところから左に旧道が残っており、150~60m先で再び県道601号線に合流する。

馬頭観世音 きりんど橋跡 本厚木駅
旧道に入って80mほど進んだ左手に明治41年(1908)の馬頭観世音、昭和24年(1949)の馬頭間世音、嘉永7年(1854)の馬頭観音などが安置されている。 旧道から県道601号線に合流して程なく、右手にきりんど橋跡がある。標柱には、「170年程前(昭和58年から数えて)、ここを訪れた六部(行脚僧)らが浄財をもって石橋にし、明治中期、架け換えるに際して、きりんど橋と称した。古老の話によると聖代の御代には、神獣きりんが出ると称して 「きりんど橋」 と呼ばれるようになった。」 と刻まれている。標柱の隣には、渡辺崋山の 「厚木六勝」 の一つ、桐堤賞月(どうていしょうげつ)の橿家甘人碑がある。 本日は、きりんど橋跡で終了し、最寄りの小田急小田原線の本厚木駅に出て帰宅の途に就いた。

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