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大山街道   (大山登口~大山山頂


平成31年1月3日(木)   ☀    大山登口~阿夫利神社本社(大山山頂)~大山登口    7.8㎞
元日から好天が続き、3日は仕事始めの前日でもあり交通機関は比較的空いているだろうと思い、いつも峠道や山行を一緒にしている友人と二人で阿夫利神社本社(大山山頂)を目指すこととした。こま参道の先では男坂を登り、夫婦杉・天狗の鼻突岩から山頂へ行き、下りは見晴台を経由して女坂で大谷寺に寄って下山することとした。

阿夫利神社御神燈 こま参道 雲井橋 追分
早朝から雲一つなく晴れ渡り、阿夫利神社御神燈を午前9時ちょうどに出発である。 直ぐ先で右手のこま参道に入っていく。
大小のコマの絵が踊り場の数を示しており、参道脇にはコマを挽く 「木地師」 の店が並び、コマ参道に入って直ぐのところに稲荷大明神がある。
こま参道を過ぎると鈴川(大山川)に架かる雲井橋がある。橋の袂には、「雨」 かんむりの下に 「口」 三つその下に 「龍」 と書く靇神(おかみ)社がある。
雲井橋を渡ると大山ケーブル駅である。
雲井橋を渡り石段を上がったところに男坂と女坂の看板があり、その先の石段の途中左手に分かれるのが女坂であり、入口に道標が建っている。
石段を上がりっきた所には、八意思兼(やつごころおもいかね)神社があり、ここから右手が男坂である。男坂と女坂に分かれるところにあることから 「追分社」 とも呼ばれている。

男坂 八大坊跡 女坂合流 阿夫利神社下社
八意思兼神社の脇からいきなり急坂の男坂が始まる。
石段の一段一段には高さがあり、踏ん張って上がっていく必要がある。石段の連続で思いのほかきつく、十数分もすると熱くなりダウンは脱いでシャツ一枚で十分である。つづら折りの少しでも平坦なところに出るとホットする。
男坂を30分ほど登ったところにやや広い場所があり、一休み出来る東屋がある。
ここは八大坊上屋敷跡で、別名を西楽院(さいらくいん)という。大山を納めていた別当(長官)の住居であり、供僧(くぞう)十一坊・脇坊六坊・末寺三・御師三百坊の惣領で、大山の運営および事務を司っていた。ここには菊水を象った万国忠霊塔が建っている。
八大坊跡の直ぐ先で左から回り込んできた女坂が合流する。
ここには文化5年(1808)の女坂道標があり、周囲には登拝記念碑や寄附金奉納碑などが建っている。
女坂合流後、間もなく阿夫利神社下社に到着である。阿夫利神社は10世紀初めの延喜式の神名帳のうちの相模十三社の一つに数えられている。ここ下社は標高700mにあり、拝殿とも呼ばれ、神事や祭祀は主に下社で行われる。社伝によれば、山頂にあって崇神天皇の頃(紀元前97年)に建てられたと伝わる。境内には、浅間社・菅原社の境内社のほか、大天狗碑・権田直助像などがあり、境内から相模湾を望むことが出来る。

冠木門 白山神社 四丁目付近 千本杉付近
阿夫利神社下社から100mほど先に冠木門と鳥居があり、ここから阿夫利神社本社への登山道となる。
冠木門脇に一丁目碑が建っており、この先山頂の鳥居前にある二十八丁目碑まで続いている。
二丁目の急な石段を過ぎて、やや平坦な場所に出ると白山神社の説明版があり、「大山修験(山伏)は、山中で行う修行の中で、白山神社を拝するのがその一過程であった。当社は加賀の国、白山神社と関係深く、大山寺開山(752年)前に建立されたといわれる。」 と記されている。ここには三丁目にあたり阿夫利神社と刻まれた石塔、天明8年(1788)の石燈籠、地蔵菩薩などがある。 白山神社の三丁目からは、石段が崩れたようなガレ場の登り坂が続く。
足場が悪いのでジグザグに足が置けるところを見ながら登っていく必要がある。
六丁目付近の杉林が千本杉と呼ばれているが、大きな木は比較的少なく、まだ若い木が斜面に密集している。
五丁目付近には、より大きな杉の木が登山道を遮るように立っている。

夫婦杉 一休み 牡丹(ぼたん)岩 天狗の鼻突き岩
八丁目に夫婦杉が立っている。
この杉は根本から二つに分かれた巨木で、推定樹齢500~600年を経ているという。
この先十三丁目まで一段一段の段差が大きく、足には大きな負担がかかって、一休みしたいと思うような道が続く。
十三丁目を過ぎて更に登ると、やっと視界が開けた場所に出る。
ここからは相模湾が望め、遠くに江ノ島が良く見える。
一休みして更に登っていくと、十四丁目の登山道の足元に牡丹の花のように見える球体の岩がところどころに見られる。 十五丁目には、「天狗の鼻突き岩」 と呼ばれる岩が登山道脇にせり出している。
この岩には、拳が入るくらいの穴が開いており、これは天狗が鼻を突いて開けた穴だと言われている。

本坂追分 十八丁目付近 富士見台 相模湾
やや開けた十六丁目の本坂追分に出ると、享保元年(1716)の石尊大権現碑が建っている。この碑は、正面に 「奉献石尊大権現大天狗小天狗御寶寺」 と刻まれ、道標を兼ねたもので高さ3m68㎝あり、江戸時代に麓から強力たちが担ぎ上げたものである。 十七丁目の土道が多い坂道を過ぎると、石段が崩れたとも思える十八丁目付近の荒れた坂道が続いている。
十八丁目の坂道を過ぎると、一瞬眺望が開けたところに出る。
西側に眺望が開けたところが富士見台で、ちょうど二十丁目にあたる。
この先は尾根伝いに道があるので、西側には富士山が見え隠れしている。
二十三丁目付近になると南側に相模湾が見えるところがあり、二十五丁目ではヤビツ峠へ向かう道が、西に向かっており、ヤビツ峠2.1㎞の道標が建っている。

青銅製鳥居 二十七丁目付近 阿夫利神社 大山山頂
二十六丁目を過ぎると登山道を跨いで青銅製鳥居が建っている。
鳥居脇には石造物があるが、何かは不明である。
二十七丁目付近からは、富士山が綺麗に望めるところがある。 二十八丁目で阿夫利神社に到着である。
寛政10年(1798)の鳥居をくぐると、水を司る高龗神(たかおかみのかみ)を祀る前社があり、先に進むと一段高いところに大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)を祀る阿夫利神社本社、その裏側山頂に大雷神(おおいかずちのかみ)を祀る奥の院がある。
大山山頂は、標高1252mのところにあり、山頂の標柱が建つ場所は広場となっており、この日もたくさんの登山客で賑わっていた。
東側には関東平野が一望でき、西側には富士山が雄大な姿を見せている。

下山 見晴台 林の道 パイプ橋
下山は東側の尾根ルートを辿り、見晴台を経由して行く。
登りとは違って段差のある石段が少ないだけ増しだが、結構膝に負担がかかる。それでも木々の間から見える景色は素晴らしいものがある。
木々の間を抜けると開けた見晴台に到着である。ここにはベンチとテーブルが置かれており、ゆっくり休憩することが出来る。
見晴台とはいっても、それほど眺望が良いわけではないが、振り向くと大山が聳えている。
見晴台の先は、斜面を伝わるように下って行く林の中の道である。
途中には、昭和3年(1928)8月8日に所沢陸軍飛行学校の沼田熊一氏が、濃霧のため墜落殉職したことを弔う碑が建っている。
急斜面が崩落した箇所にはネットが張られ、その脇をパイプ橋が通っている。

縁切り杉 二重社 二重滝橋 大新稲荷神社
更に下っていくと右手に数段の石段があり、段上に大きな杉の木と根元で結合した木が注連縄で繋がれている。
この杉は、かつて丑の刻参りに使われたと伝えられているが、今は縁切り杉と呼ばれている。
少し進むと鈴川(大山川)の源流をなす滝(二重の滝)の脇に二重社が建っている。
二重社は阿夫利神社の摂社で、高龗神(たかおかみのかみ)を祀っている。
二重滝は岩の割れ目から水が流れ出ており、大山詣での禊の場であった。また、かつて滝壺の畔には、樹齢1000年を超す杉があり、丑の刻参りに使われたことから 「呪いの杉」 と呼ばれていた。
二重社前から二重滝橋を渡って行く。
二重の滝から流れ出た水は、南沢を下り鈴川(大山川)となって流れていく。
二重滝橋を渡って程なく正面に、赤い鳥居が目立つ大新稲荷神社が見えてくる。
大新稲荷神社は、大山にある全ての稲荷神社の中心と言われている。

追分 眼形石 潮音洞 無明橋
大新稲荷神社を過ぎて、右手段上に阿夫利神社下社を見て進むと、男坂と女坂の追分であり、下りは女坂を降りていく。
いきなり下りの石段で一段一段の段差が大きいため、膝にかなりの衝撃がある。
どんどん下っていくと左側に観音菩薩が建っており、その隣の三角形をした石が眼形石と呼ばれている。
解説によると、人の眼の形をしたこの石に手を触れてお祈りすれば、不思議に眼の病気が治るという。
更に下ると右手の斜面に岩を繰り抜いた祠があり、その上を木の根が覆っている。
解説には、「祠に近づいて心を鎮め耳を澄ませると遠い潮騒が聞こえてくるという。この祠の中にどのような神秘が隠されているのであろうか。」 と記されている。
水が流れていない小さな沢に無明橋が架かっている。近くにある解説には、「話をしながら通ると、橋から下に落ちたり、忘れ物や落とし物をしたり、悪い事が起きたりするという。」 と記されている。
橋の袂の右斜面には、芭蕉句碑 「山寒し 心の底や 水の月」 が建っている。

大山寺 来迎院 逆さ菩提樹 爪切り地蔵
無明橋を渡り道なりに進むと、真言宗大覚寺派の雨降山大山寺へと入っていく。
大山寺は、天平勝宝7年(755)奈良東大寺の別当良弁僧正が、父母の孝養のために建てたと言われている。
本尊は不動明王で、境内には大師堂、稲荷神社のほか、青銅宝篋印塔、木遣塚、地蔵菩薩坐像、芭蕉句碑などがある。
大山寺の下に真言宗大覚寺派の寶珠山来迎院がある。来迎院は、義範が開山となり創建し、弘誉が中興したといい、大山寺住僧や八大坊の菩提寺であったという。
本尊は阿弥陀如来像で、境内には徳川家光により寄進された龍神堂(八大堂)がある。
来迎院の直ぐ先の沢の脇に逆さ菩提樹がある。傍らの解説によると、この菩提樹は、上が太くてしたが細く、逆さに生えたように見えることから、逆さ菩提樹という。
現在は二代目である。
更に下っていくと大きな岩を削った爪切り地蔵と呼ばれる地蔵菩薩坐像がある。
傍らにある解説には、「弘法大師が道具を使わず、一夜のうちに手の爪で彫刻されたと伝えられている。何事も一心に集中努力すれば実現できるとの教えである。」 と記されている。

紅葉橋 弘法の水 大山登拝練行碑 茶湯寺
直ぐ先に沢に架かる紅葉橋(もみじばし)があり、袂の斜面に子育て地蔵と呼ばれる地蔵菩薩坐像と宝暦2年(1752)の南無阿弥陀仏名号碑が建っている。
渡り詰めにも小さな地蔵菩薩が二つ並んでいる。
紅葉橋の直ぐ下に弘法の水がある。
傍らの解説には、「弘法の加持冷水ともいい、弘法大師が岩に杖を突いたら、その跡から清水がこんこんと湧き出たという。夏でも枯れることなく、いつでも水の量が変わらないという。」 と記されている。
弘法水の上の斜面には弘法大師像があり、弘法水の脇には、弘法大師加持霊水碑・俱利伽羅大龍神碑が建っている。
弘法の水から少し下った右手斜面に大山登拝練行碑が建っており、周囲には地蔵菩薩、石祠、無縁佛供養塔などが建っている。 更に下って八意思兼神社前の男坂と女坂の追分を過ぎ、こま参道を下っていくと、右手の鈴川(大山川)を渡ったところに、浄土宗の誓正山茶湯殿涅槃寺がある。
こま参道に寺標があるが、通称は茶湯寺(ちゃとうでら)である。死者の霊を百一日の茶湯で供養する 「百一日参り」 の寺として知られている。本尊の釈迦涅槃像は市の重要文化財に指定され、境内には死者供養の為のたくさんの石仏がある。

道祖神
こま参道の上り口まで下ると、鈴川(大山川)を渡った豆腐坂の登り詰めに当たる段上に、道祖神が建っている。
午前8時50分に登り始めた大山詣では、全行程6時間25分で終了である。大山ケーブルバス停からは、臨時のバスが出ており、あまり待たずに乗車できた。

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