太田道灌(1432-86)は幼名を鶴千代といい、成人してからは資長または持資といった。また仏門に帰依してからは、道灌と号した。道灌が生まれた頃、父資清は相模の糟屋に本拠をおいていたので、道灌は現在の伊勢原市内で生まれたものと思われる。幼い頃から非常に利発で、神童といわれていた。当時の日本は戦国時代で、各地の武将の間に戦いが絶えなかった。
 道灌は25歳の時(1457)、武蔵野に原に、海に臨んで城と町とを築いた。後に、この城は江戸城といい、徳川幕府300年の居城となった。明治以後、町は東京と呼ばれ、城は皇居となった。これにより道灌は、いまでも東京の基礎を築いた人として、その名が高い。
 道灌は築城軍略の大家であるばかりでなく、詩歌を好み、風流を愛する文武兼備の人であった。上洛の折、時の天皇の勅問に和歌をもって答えた逸話や、山吹の説話など有名な話も多い。
 晩年、道灌は京都の足利幕府と関東の公方とが、互いに協力して政治を行なわなければ、平和は望めないと考え、力を尽くした。しかし、主君の上杉定正は、己の権力の増大のみを求めていたため、道灌は怒りにふれ、志半ばにして粕屋の上杉館で謀殺された。時に54歳であった。
 道灌の墓のあるここ洞昌院は、道灌が関東管領上杉憲実の弟道悦和尚のため建てた寺と伝えられている。現在、伊勢原市では、毎年10月の第一土・日曜日に親光道灌祭を行って、道灌の遺業を偲んでいる。

宝篋印塔群

太田道灌の墓 (宝篋印塔)

太田道灌公墓所

開基廟

太田道灌公霊地碑

大正6年(1917)の手水石

太田道灌墓碑

如意輪観音像。地蔵菩薩立像など

片岡紫々句碑

千手観音像・如意輪観音像など

鳥来ねば 櫟(くぬぎ)の葉 しづかなり

太田道灌解説