十三重塔

地蔵菩薩立像

三界万霊塔

墓地整備記念碑

 山角氏は、豊友秀吉の小田原攻めにより滅ぼされた北条氏の重臣でありました。法雲寺開基勝長の曽祖父定勝は北条氏滅亡後当主氏直に従い高野山に隠棲しましたが、天正19年7月徳川家康に召し出され、酒井村、長沼村及び平塚八幡村の一部併せて石高1200石を領しました。慶長8年85歳で没し、菩提寺と定めた法雲寺に葬られました。その後勝長の代になり伽藍を整備して法雲寺を中興いたしました。
 山角氏の屋敷は酒井新宿にあって、この跡が、今、殿原(頓原)と云われている所です。徳川家が大政奉還し駿府へ移住すると、多くの旗本も行動を共にし山角家も酒井の地を去りました。それ以後明治時代初期よりは、法雲寺も薬師堂も近在の人々によって支えられ現在に至っております。山角家歴代の立派な墓石は、宝篋印塔(中央の四基)と呼ばれるもので、鎌倉時代以降おもに武家の供養塔として多く見られるものです。

山角家歴代墓所

山角氏解説

 法雲寺は正式には、来迎山勝長院法雲寺と号し、阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗寺院で、もと江戸の芝増上寺の末寺です。
 創建については度重なる水害によって記録が散逸し詳しくは分かりませんが、僅かに残る資料から推察すると、この地を永い間領した山角家が古くから在った寺院と薬師堂を、天正の頃(豊臣秀吉の活躍した時代およそ400年前)法雲寺として再興し、山角家の菩提寺と致しました。往時は山角家の居館に隣接して広大な境内を有し、東海道箱根越えの古道矢倉沢往還が寺域に沿って通っておりました。この地は大住郡の追分で交通の要路に当たり、街道に植えられた桜並木の景観が素晴らかったそうです。当時の酒井村は約80戸位と記録に在ります。

六地蔵尊

忠魂碑

法雲寺本堂

法雲寺由緒

無縁仏