太田道灌は、室町時代の重臣である扇谷上杉氏の家宰です。永享4年(1432)に相模で生まれたといわれ、幼名は鶴千代、元服して資長と名乗りました。道灌は剃髪後の名です。
幼少より父道真(資清)の薫陶を受け、康正元年(1455)に家督を継ぎ、長禄元年(1457)には26歳で江戸城を築きました。「文武両道の鑑」
と誉れ高く、文事では和歌に情熱を傾けてその道に深く通じ、軍事では特に戦略的な才覚に優れて、扇谷上杉氏を守り立てました。しかし、その有能さが上杉家宗家の山内上杉顕定に疎まれ、道灌は顕定の讒言を信じた主君の上杉定正によって暗殺されるという悲劇の主人公となりました。文明18年(1486)7月26日、定正の居館である糟屋館(伊勢原市内)での出来事です。
道灌の墓は、市内ではこの下糟屋の大慈寺と、道灌の遺体を荼毘に付したと伝えられる上糟屋の洞昌院にあります。大慈寺は道灌が鎌倉からこの地に移して再興し、叔父の周厳淑悦禅師を中興開祖としたとされる寺です。現在の本尊である聖観音像も、道灌の持仏であったと伝えられます。墓はいつからか
「首塚」 と呼び習わされ、宝篋印塔と五輪塔からなる石造の供養塔が祀られています。
(伊勢原市教育委員会)
史跡太田道灌墓碑
太田道灌公墳墓之地碑
太田道灌の墓 (宝篋印塔と五輪塔)
五輪塔
太田道灌の墓解説
太田道灌450年祭記念碑
大慈寺殿心圓道灌大居士碑