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大山街道   (赤坂見附~二子玉川


平成30年11月23日(金)   ☀|☁    赤坂見附~二子玉川    14.0㎞
大山街道(大山道)は約30通りの道筋があり、東西南北各地から大山を目指した道である。今回は東海道の脇往還として江戸時代に整備された矢倉沢往還を通り、大山へ向かうこととした。大山街道(矢倉沢往還)は赤坂見附を起点として青山、三軒茶屋、瀬田で多摩川を渡り、二子・溝口を経て、長津田、厚木、伊勢原から大山へ通じている。11月も下旬となり日照時間はかなり短くなっているので長時間は歩けないが、街道の面影を偲びながらゆっくり進むこととした。

赤坂見附 弁慶橋 赤坂見附交差点 豊川稲荷
本日は勤労感謝の日であり、辺りにサラリーマンなどの通勤の姿はない。
ここ赤坂見附は、千代田区紀尾井町に位置し、江戸城三十六見附のひとつであり、外敵の侵入などを発見するために設けられた城門があったところである。また江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもあった。
赤坂見附跡を下って行くと右手の外堀に弁慶橋が架かっている。この橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた藍染川に架かっていた同名の橋の廃材を用いて明治22年(1889)に架けたもので、名称は橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来する。渡詰めの右手はかつての紀伊中将慶福、左手は井伊掃部頭直弼の屋敷があったところである。 弁慶橋の前から首都高速道路の下を抜けて国道246号線に出ると緩やかな坂道となる。
ここ赤坂見附交差点は、東京都内でも有数の商業・業務地区をひかえ多様な目的の交通が集中しており、かつては多くの歩行者が車道を横断していたという。このため共同溝工事により発生した地下空間を活用して、地下駐車場と地下歩道を一体的に整備し、併せて交差点周辺部の歩道の整備を行った。
赤坂見附交差点から坂道を上って、鹿島建設本社前の横断歩道橋を少し越えたところに、豊川稲荷東京別院がある。
豊川稲荷は、愛知県豊川閣の東京別院で江戸時代の名奉行大岡越前守忠相公が生涯の守護神として日夜信仰した豊川吒枳尼真天を祀っている。境内には奥の院、大岡越前守忠相御廟、三神殿(宇賀神王・太郎稲荷・徳七郎稲荷)、大国堂などがある。

九郎九坂 牛鳴坂 武家屋敷門 国道246号線合流
豊川稲荷の北側に九郎九坂(くろぐざか)が通っている。江戸時代の一ツ木町名主秋元八郎左衛門の先祖、九郎九が住んでいて坂名になった。また、鉄砲練習場があったことから鉄砲坂とも呼ばれていた。 鹿島建設本社前から国道246号線を横断歩道橋で渡ると、左手に旧道口の牛鳴坂がある。赤坂から青山へ抜ける厚木道で、路面が悪く車を引く牛が苦しんだために名付けられた。別名 「さいかち坂」 ともいう。 先に進むと左手の山脇学園の敷地内に武家屋敷門がある。
この武家屋敷門は、もと老中本多美濃守忠民(三河国岡崎藩5万石)の屋敷門で、文久2年(1862)の大火により焼失したが、直ちに再建され、今日に至っている。山脇学園では 「志の門」 と名付け、節目となる行事には通用門として使用しているという。
山脇学園を過ぎると下り坂となり、その先で国道246号線に合流する。
正面に見える緑地は赤坂御用地で、東宮御所・秋篠宮邸・三笠宮邸・高円宮邸などがあり、敷地内部には園遊会が開催されることで知られる赤坂御苑がある。

薬研坂 高橋是清翁記念公園 赤坂消防署発祥地碑 イチョウ並木
国道246号線との合流地点左手に東に下る薬研坂がある。この坂は中央が窪み、両側の高い形が薬を砕く薬研に似ていることから名付けられた。また付近住民の名で何左衛門坂とも呼ばれた。 国道246号線に合流して間もなく、左手に高橋是清翁記念公園がある。明治時代後期、日本の金融界の重鎮であり、大正から昭和初期にかけて首相、蔵相をつとめた政治家、高橋是清(1854~1936)の邸宅跡である。邸宅は移築され、都立小金井公園内の 「江戸東京たてもの園」 で公開されているが、園内の奥には、高橋是清翁の銅像が建っている。 高橋是清翁記念公園を過ぎると、青山一丁目交差点を左折したところに、火消しの纏の形をした赤坂消防署発祥地碑が建っている。
赤坂消防署は、この地に大正13年に誕生し、以来昭和30年までの間地域と一体となって協力と和のもとに防災の拠点としてその任務を果たした。
続いて青山二丁目交差点の右手には、神宮外苑のイチョウ並木が続いている。
イチョウ並木の突き当り奥には、絵画館が見えている。

梅窓院 善光寺 表参道 青山学院
先に進むと東京メトロ銀座線の外苑前駅の前に浄土宗の長青山宝樹寺梅窓院がある。
梅窓院は、寛永20年(1643)徳川家康公以来の家臣、老中青山大蔵少輔幸成が逝去のとき、青山公の下屋敷内に側室を大檀越として建立された。寺号は青山幸成公と側室の法名から長青山梅窓院と名付けられた。墓所には観音堂があり、その裏に青山家13代を祀る墓がある。
街道に戻って進むと表参道の手前、右手に浄土宗の南命山無量寿院善光寺がある。
善光寺は、善光寺第109世大蓮社光忍円誉智慶が徳川家康に請願して江戸谷中に建立したのが始まりで、その後、元禄16年(1703)の大火で焼失し、宝永2年(1705)に再建移転した。境内には、高野長英記念碑・子育地蔵尊などがある。
街道に戻ると右手の表参道入口に明治神宮の常夜燈が建っている。 先に進むと街道左手に青山学院があり、折しもキャンパス内のイチョウが色づき始めていた。

こどもの樹 金王八幡宮 宮益坂 御嶽神社
青山学院を過ぎると、右手にこどもの城(国立総合児童センター)の建物があり、正面にはモニュメントの 「こどもの樹」 が建っている。
これは子供の造形活動に深い関心を寄せ、様々な活動をした岡本太郎が 「こどもの城」 のシンボルとして制作した作品である。
先に進むと宮益坂上交差点の五差路に出て、街道は斜め右筋を渋谷駅方向に進むが、斜め左の金王坂(国道246号線)を下っていくと、六本木通り(都道412号線)を渡ったところに金王八幡宮がある。金王八幡宮は、渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092)に創建したと伝えられている。渋谷氏は代々八幡宮を氏族の鎮守と崇め、境内には渋谷城砦の石が保存されている。 街道に戻って宮益坂上交差点から渋谷駅方向に宮益坂を下っていく。宮益坂は、かつて、富士見坂とも呼ばれ、古くから矢倉沢往還(大山道)として江戸の町と郊外農村との接続点であった。御嶽権現の門前であったことから、宮益町と称していたので、宮益坂と呼ばれるようになった。 宮益坂の途中右手に御嶽神社がある。
御嶽神社は、大和国吉野郡金峰神社の分祭社であり、室町時代初期に創建されたと言われている。境内には、延宝9年(1681)の不動明王が祀られた不動堂、明治天皇御嶽神社御小休所址碑、芭蕉句碑のほか、全国的にも大変珍しい日本狼石像の狛犬がある。この狛犬はレプリカで、本物は延宝年間(1673-81)のものであり、損傷が激しいため社務所内に安置されている。

忠犬ハチ公像 道玄坂口 道玄坂碑 滝坂道
街道に戻ってJR山手線の高架をくぐると、左手の渋谷駅前に忠犬ハチ公像が建っている。
ハチ公は、大正12年(1923)秋田県で生まれた雄犬で東京帝国大学教授上野英三郎氏の飼い犬であり、上野氏が急死した後も渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けたことで知られている。ここには忠犬ハチ公小伝碑・地球のうえにあそぶこどもたち像などがある。
街道に戻ると中央にSHIBUYA109が建つY字路があり、街道は左手の道玄坂を進んでいく。 道玄坂をどんどん上っていくと、左手の筋角に道玄坂碑が建っている。
傍らには与謝野晶子碑・道玄坂道供養碑、道玄坂標柱などが建っている。
道玄坂碑の斜向かいある渋谷警察署道玄坂上交番の左脇から西の延びる道が滝坂道である。
滝坂道は、かつての大山道が道玄坂から分岐して、武蔵国府のあった府中に向かっている道で、その起源は江戸幕府が開府する前からと考えられている。滝坂道は、調布で甲州街道に合流し、名前の由来は、甲州街道の滝坂で合流することから滝坂道と呼ばれた。滝坂道に踏み込むと、京王神泉駅へ向かう途中に神泉湯碑が建っている。

大坂 上目黒氷川神社 大橋 旧道口
街道に戻って国道246号線に合流して進むと、神泉町交差点を過ぎた右手に旧道の大坂がある。大坂は、厚木街道の間にあった四十八坂のうち、急坂で一番大きな坂であったので、大坂と呼ばれたという。
現在の坂は、整地されて緩やかな坂道となっており、直ぐ先で山手通り(都道317号線)を横切って、再び国道246号線に合流している。
国道246号線に合流して間もなく、右手段上に上目黒氷川神社がある。当神社は、天正年間(1573-92)に武田信玄の家臣であった加藤家が上野原より産土の大神を勧請したことに始まると言われている。
正面石段は、文化13年(1816)の造りで、石段脇に天保13年(1842)の大山道道標があり、境内には、稲荷神社・浅間神社が建っている
先進むと目黒川に架かる大橋がある。
大橋は、大山街道(矢倉沢往還)の道しるべとなる地点の一つであり、文化・文政期の 「新編武蔵風土記稿」 によると、文化年間(1804-17)に村民勘右衛門が土橋を架けたのが始まりという。
目黒川を渡って直ぐ、左手に分岐する旧道があり、国道246号線に並行している。

稲荷神社 昭和女子大学 大山道道標 教学院
旧道を先に進むと右手に池尻稲荷神社がある。当社は、今から約350年前の明暦年間(1655-57)に旧池尻村、池沢村の両村の産土神として創建され、以来、村の共同生活と信仰の中心として現在に至っている。境内には、薬水の井戸があり、往時、農民や大山街道を往来する人々が頼りにしたと伝えられている。また、涸れずの井戸とも呼ばれ、現在もこの井戸水は涸れることなく湧き出ている。 旧道を先に進むと国道246号線に合流し、左手に昭和女子大学があり、一帯には昭和女子大学附属の小学校・中学校・高等学校が併設されている。 昭和女子大学を過ぎると三軒茶屋交差点のY字路となり、この中央に大山道道標が建っている。ここで大山街道は、右手の古い旧道の上町線と文化・文政頃に開通した新町線とに分かれるが、今回は古い方の上町線を行くこととした。
大山道道標は、文化9年(1812)に再建された不動尊の道標である。
世田谷通りの商店街を進み、左手のりそな銀行の向いの筋を北に進んで東急世田谷線を渡り、線路沿いを右に進むと、左手に天台宗の竹園山最勝寺教学院がある。教学院は、慶長9年(1604)玄応大和尚が江戸城内紅葉山に創建し、その後、赤坂三分坂、青山南町と移転し、明治41年(1908)に現在地に移転した。
境内には、江戸五色不動の目青不動を祀る閣王殿がある。

左卜全住居跡 駒留八幡神社 常盤塚 北原白秋住居跡
街道に戻って進み、左手のガソリンスタンドENEOSの街道を挟んだ向いの筋を北に入っていくと、十字路の右手に左卜全住居跡がある。左卜全は、本名を三ヶ島一郎といい、埼玉県入間郡小手指村に生まれ、俳優・オペラ歌手として活躍した。主な出演映画には、黒沢明監督の 「醜聞」、「七人の侍」、「どん底」、「赤ひげ」 などがある。 街道に戻って進み、環状7号線(都道318号線)を渡って左に170~80mほど進むと、右手筋に駒留八幡神社がある。
駒留八幡神社は、当地の領主北条左近太郎入道成願が、徳治3年(1308)社殿を造営した。社殿を造営する際、自分が乗った馬の手綱を緩めて立ち止まったところに社殿を造営したことから駒留八幡と称したという。境内には、稲荷神社・御嶽社・三峯社などの境内社がある。
街道に戻って常盤歩道橋の先の若林三丁目バス停の路地を左折すると、右手に常盤塚がある。
駒留八幡神社の厳島神社に祀られた常盤は、世田谷城主吉良頼康の寵愛を受けていたが、これを妬む他の側室の讒言により、この近くで殺害されて此処に葬られたという。
常盤塚を過ぎてT字路信号交差点を越えると、右手のビルの間に北原白秋住居跡がある。
歌人・詩人・童謡作家であった北原白秋は、その生涯57年のうち、44歳から55歳までの12年間、世田谷区内に在住していた。この地若林3丁目15番に昭和3年4月、旧馬込町(大田区)から移転してきた。区内最初の住所地で、「世田谷風塵抄」 と題する一連の短歌を詠んでいる。

松陰神社 大吉寺 円光院 ボロ市通り
北原白秋住居跡から150mほど進むと、右手に松陰神社通りがあり、この筋を400mほど北に進むと松陰神社がある。松陰神社は、安政の大獄で江戸伝馬町の獄中で刑死した吉田松陰を祀る神社であり、かつてこの地は、毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸があったところで大夫山と呼ばれていた。境内には、松陰先生他烈死墓所などの墓域があり、拝殿脇には山口県萩の松下村塾を模した建物がある。 街道に戻って先に進むと、世田谷駅前交差点の手前右手に浄土宗の護国山天照院大吉寺がある。
大吉寺の創建年代等は不詳であるが、真言宗寺院として創建され、世田谷区吉良氏の祈願所となっていた。本尊は池田備前守の発願による金仏の阿弥陀如来坐像で、当時の善男善女の喜捨によるものである。境内には、地蔵菩薩・大吉稲荷がある。
大吉寺に隣接して真言宗豊山派の大悲山明王寺円光院がある。
円光院は、天正年間(1573-91)に盛尊(元和7年・1621年没)により開基された。当寺は、玉川八十八ヶ所霊場第四十九番札所となっており、境内には閻魔護摩堂・地蔵堂のほか、三面八臂の馬頭観音・元文6年(1741)の西国坂東廻国供養塔などがある。
円光院前の世田谷駅入口交差点を左折して、次の信号交差点を右折するとボロ市通りである。
世田谷のボロ市は、天正6年(1578)小田原の北条氏政が世田谷新宿に楽市を許可したことに始まる。明治から12月と1月に開かれ、正月用品、農具類などのほか、次第に古着やボロ布の扱いが主流となって 「ボロ市」 と呼ばれるようになった。現在は日用品・装身具・玩具・植木など様々な店が並び、露店数は約700店と言われる。

世田谷代官屋敷 上町天祖神社 道標跡 実相院
ボロ市通りを先に進むと、左手に世田谷代官屋敷が建っている。この住宅は、大場家7代六兵衛盛政が元文2年(1737)と宝暦3年(1753)の2度にわたる工事によって完成したものである。大場家は、元文4年(1739)から幕末まで彦根藩井伊家世田谷領(2,,300石)の代官職を世襲しており、その役宅として使用していた。ここは郷土資料館と一体となっており、かつて街道にあった道標・庚申塔・供養塔などが保存されている。 世田谷代官屋敷の斜向かいの筋奥に上町天祖神社がある。
上町天祖神社の創建年代等は不詳であるが、もと横根の地(伊勢森)にあった稲荷社の祠を嘉永2年(1849)に当地へ遷座して祠を造ったと云われている。
先に進んで右から来る世田谷通りを渡り、突き当りを左折して再び世田谷通りを渡ると、右手の鈴正畳店の角に道標跡がある。
ここにあった道標は、延享3年(1746)のもので世田谷代官屋敷の郷土資料館前に保存されており、「左さがみ大山道・右登戸道」 と刻まれている。
道標跡の先の五差路を左折すると右手に曹洞宗の鶴松山実相院がある。この門は実相院の北門である。実相院は、勝光院中興開山の天永琳達大和尚の隠居寺として天正16年(1588)に創建された。山号院号は、世田谷城主の吉良氏朝夫婦の法名からとったものである。境内には、多宝塔、高橋是清翁之髭墓、宝篋印塔、五輪塔のほか、寛永6年(1629)・延宝9年(1681)などの石燈籠がある。

旅人の像 街道街並み 庚申塔・馬頭観音 衛生材料廠跡
街道に戻って先に進むと、大山道児童遊園の前に大山詣の旅人の像が建っている。
ここは、かつて目黒川の支流である蛇崩川が流れており、洗場があったところである。現在は、暗渠となって川を見ることは出来ないが、旅人の像の脇に蛇崩川洗い場跡碑が建っている。
旅人の像の先は、比較的直線の街道が南に向かって延びている。 先に進むと弦巻四丁目交差点の右角に、覆屋の中に安置された地蔵菩薩を載せた庚申塔が建っている。
庚申塔の側面には、「左り大山道・右世田谷道」 と刻まれ、その脇には小さな馬頭観音が建っている。
陸上自衛隊交差点を過ぎると、右手の国立医薬品食品衛生研究所跡地の塀脇に衛生材料廠跡碑が建っている。
国立医薬品食品研究所は、平成30年1月に神奈川県川崎市川崎区に移転した。衛生材料廠とは、旧陸軍の医薬品や医療器具などの調達・保管・補給などを担当していた部署である。

用賀追分 真福寺 田中橋 延命地蔵尊
衛生材料廠跡を過ぎると、左手から大山街道新町線が合流してくる用賀追分に出る。
この合流地点には、大山道追分碑(道標跡碑)が建っている。
かつてこの地に建っていた道標は、文政10年(1827)のもので世田谷代官屋敷の郷土資料館に保存されており、「左り世田谷四ツ谷道・右江戸道」 と刻まれている。
用賀追分の先を進むと、右手筋角に真福寺寺標があり、この筋を100mほど入ると真言宗智山派の瑜伽山真如院真福寺がある。
真福寺は、かつて北条氏に仕えていて、その後用賀村を開拓した飯田図書が開基で、法印宗円和尚が開山・創建したと言われている。
境内には、大日堂・庚申堂・太子堂のほか、芭蕉句碑などがある。
真福寺を出て田園都市線用賀駅前(地下)を通ると、その先に首都高速3号渋谷線の高架があり、田中橋と表示されている。
高架下には谷沢川が流れいるが、暗渠のため川の流れは見えないが、直ぐ下流から多摩川まで開渠となっている。
先に進むとY字路があり、中央に延命地蔵尊を安置した地蔵堂が建っている。
ここで大山街道は二手に分かれ、右が古い慈眼寺線、左が新しい行善寺線であり、いずれもこの先で二子の渡しへ続いている。この延命地蔵尊は安永6年(1777)用賀村の女念仏講中によって建てられたもので、法界万霊と刻まれている。

大空閣寺 慈眼寺 慈眼寺坂 瀬田玉川神社
延命地蔵尊から右手の古い慈眼寺線を進むと、環状8号線で分断されるため、左右いずれかの横断を使用して先に進んでいく。環状8号線を越えて間もなく、右手に真言宗豊山派の如意山大空閣寺がある。大空閣寺は、大正10年(1921)に聖慶和尚によって豊多摩郡戸塚町(現新宿区高田馬場)に創建され、昭和10年(1935)当地に移転した。境内には、中宮殿・観音堂のほか、開山聖慶大僧正碑・弘法大師像などがある。。 大空閣寺の先のT字路を右折すると、その先の坂上に真言宗智山派の喜楽山教令院慈眼寺がある。慈眼寺は、権大僧都法印定音が開山で、長崎四郎左衛門を開基として崖上の現在地に堂宇を建立した。
街道の参道口には笠付庚申塔などがあり、山門は仁王像で、境内には釈迦堂・五重塔型燈籠・興亜観世音菩薩などがある。
街道に戻って笠付庚申塔の手前を左折すると、多摩川方向への下りの慈眼坂が延びている。 慈眼寺坂を下っていくと、右手の段上に瀬田玉川神社がある。瀬田玉川神社は、戦国時代の永禄年間(1558-70)に瀬田村の下屋敷に勧請し、その後、寛永3年(1626)長崎四郎右衛門嘉国が現在の社地を寄進して現在地に移転した。
神社は国分寺崖線の小高いところにあることから、長らく御嶽神社と呼ばれていたが、明治41年に八幡社・熊野社・天祖神社(大神宮)などを合祀して玉川神社となった。

玉川寺 玉真院 治大夫橋 道標
瀬田玉川神社に隣接して日蓮宗の身延山関東別院妙隆山玉川寺がある。玉川寺は、昭和7年(1932)に身延山久遠寺法主望月上人が、日暮里妙隆寺を移転し、新たに身延山関東別院として開山した。
ご本尊は永年身延山に格護されていた御木造「開運日蓮大菩薩」 である。
街道に戻ると直ぐ先の左手筋を入ったところに真言宗智山派の宝泉山玉真院がある。
大正時代に龍海和尚により大師堂が建てられ、その後、昭和9年(1934)に地下仏殿が建立され、地下仏殿には仏の胎内をかたどって、石仏が300体ほど安置されているという。通称は玉川大師と呼ばれ、境内には巨大な弘法大師像・地蔵菩薩坐像・子育地蔵菩薩立像などがある。、
街道に戻ると六郷用水(丸子川)に架かる治大夫橋がある。
六郷用水は、江戸時代初め小泉次大夫吉次が切り開いた灌漑用水で、地元では次太夫堀と呼んでいた。
治大夫橋の渡詰め右手に、二子玉川郷土史会が平成11年(1999)に建てた道標が建っている。
道標には、「右むかし筏みちぇ むかし大みち」 と刻まれている。

砧線中耕地駅跡 筏道
先に進むと左手の二子玉川バルイベロの前に砧線中耕地駅跡がある。
ここは東急砧線の中耕地駅があったところで、東急砧線は多摩川の砂利を輸送する目的で、前身の玉川電気鉄道により大正11年(1922)に軌道路線として開業したが、その後の開発等により昭和44年(1969)に廃線となった。
どんどん進んでいくと多摩川と並行に走る筏道へ突き当たる。
かつて五日市や青梅から六郷まで筏に組んで木材を運び、筏乗りは六郷で木材を下すと、復路を竿を担いで多摩川沿いの道を遡り、五日市や青梅に帰ったという。そこからこの道は筏道と呼ばれている。
今回はここで終了し、最寄りの二子玉川駅に出て帰宅の途に就いた。

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