薄幸の佳人常盤の方ここに眠る。
天文動乱の昔、南関東の覇者世田谷城主七代吉良頼康は、重臣奥沢城主大平出羽守の息女常盤の方をこの上なく寵愛していたが、他の側室達の讒訴を信じてゆくなくこれを退けんとした。常盤の方は早くもこれを察知して城を脱出したが、到底逃れがたきを悟り、
  君をおきて仇し心はなけれども
    浮名とる川 沈みはてけり
窈窕美麗たぐいなしとうたわれ鷺草にも比すべき麗人も無実を訴えたこの悲痛な辞世を残してあわれ19歳の花の命を胎内の若子諸共に田の面の露と消え果てたのである。
 後にこれは冤罪であることが明らかとなり頼康は後悔のほぞをかみ、遂に八幡の旧地に若子を相殿として祀る。駒留八幡がこれである。
 時人また非業の最後を遂げた常盤の方を憐れみ、この地に一塚を築き語り継ぎ、言い伝え、連綿としてこれを守り続けたが、年月久しき今は顧みるものも少なく、塚も朽ち果てて見る影もない。有志これを憂い相謀って資を募りこれを復興してその霊の鎮まらんことを祈るものである。
 春風秋雨400余年、歴史をこえた伝承の息吹があここに生きている心地がするのである。
 願わくは常盤の霊よ 安かれ
 

伝承史跡常盤塚碑

 世田谷城主吉良頼康(永禄4年・1561年没)の側室で、奥沢城主大平出羽守の女(むすめ)常盤を埋葬した塚とされる。
 伝承によれば、頼康の寵を一身に集めた常盤は他の側室にそねまれ、城を逃れたが、この近くで殺害されてここに葬られた。
 後に訴えが虚偽であることを知った頼康は、これを悔やみ、駒留八幡神社に常盤を弁財天として、常盤の胎児を若宮八幡として祀り、また虚偽の訴えをした側室12人を処刑した。
 人々は、常盤塚と12人の側室の塚を「十三塚」と呼び信仰の対象としてきたが現存するものはこの常盤塚だけである。
   (世田谷区教育委員会)

常盤塚

常盤塚解説