この橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた藍染川にあった同名の橋の廃材を用いて明治22年(1889)に新たに架けたものです。名称は橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来します。この橋にあった擬宝珠は、筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋から集めたものでした。当時は和風の美しい橋であったため、弁慶濠沿いの桜とともに明治・大正期の東京の名所となっていました。
 昭和2年(1927)に架け替えられ、現在の橋は昭和60年(1985)に改架したコンクリート橋です。緩やかなアーチの木橋風の橋で、擬宝珠や高欄など細部に当初の橋の意匠を継承しています。

 この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領しました。
 紀伊徳川家は、徳川家康の十男頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は慶長8年(1603)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています。石高は、ほぼ55万5000石でした。
 明治5年この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて「紀尾井町」という町名になりました。

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡碑

弁慶濠(外堀)

弁慶橋