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大山街道   (二子玉川~青葉台


平成30年11月24日(土)   ☀|☁    二子玉川~青葉台    14.0㎞
本日は、二子の渡しからスタートする。二子の渡しは渡船によって多摩川を渡っていたが、その業務は元は二子村で行っていたが、天明8年(1788)以降は、対岸の瀬田村と2ヶ村で運営した。10月から翌年4月までは土橋が架けられ、渡船による運航は5月から9月までの5ヶ月間であったという。なお、二子の渡しは元禄年間(1688-1703)からあったようで、古くは二子橋の上流にあったと言われているが、現在は下流に渡し場跡碑が建っているのみである。

二子玉川駅 二子の渡し跡 二子橋 旧二子橋親柱
早朝の二子玉川駅は人もまばらである。
二子玉川駅は、玉川電機鉄道の玉川停車場として開業し、その後、目黒鎌田電鉄の大井町線が延伸し、二子玉川駅が開業された。
二子玉川駅の東口から筏道を渡り、多摩川沿いの道に出ると、区立玉川福祉作業所の前に二子の渡し跡碑が建っている。
ここは大山街道行善寺線の延長線上に位置している。ここから先は、迂回路として二子橋を渡って対岸に行く。
二子玉川駅の西口から二子橋の下流側にある歩道を渡っていく。
二子橋は、多摩川に架かる橋で、昭和2年(1927)から昭和41年(1966)までは、鉄道道路併用橋であり、現在の橋は昭和35年(1960)に架け替えられたものである。
上流に見えるのは新二子橋で、この間にある河川敷が兵庫島公園である。
二子橋の渡詰めに旧二子橋の親柱が保存されている。親柱の脇には小さな立札があり、「二子橋の完成は大正14年。それまで、街道を行人々はここ二子の渡しから多摩川を渡った。徒歩船、馬船。河原には茶屋、蕎麦屋。船待ちや川遊びで、渡し場は大いに賑わった。」 と記されている。
なお、旧二子橋の親柱は、玉川側の厚木街道高架下の国道246号線沿いある小公園にも保存されている。

二子の渡し標柱 二子神社 光明寺 巨大釜
旧二子橋親柱の直ぐ先、信号十字路の右角に「旧大山街道二子の渡し場入口」 と記された標柱が建っている。、 先に進むと右手に大正4年(1915)に建てられた二子神社の一の鳥居があり、突き当りに二子神社の社殿がある。二子神社は、寛永18年(1641)武田家の旧臣小山田兵部が当地に土着し、奉持していた天照皇大神を守護神として創建したと伝えられている。境内には、出世稲荷・庚申塔・南無阿弥陀仏名号碑のほか、岡本かの子文学碑・かの子の子・岡本太郎の抽象彫刻などがある。 街道に戻って200mほど進むと、右手に浄土真宗大谷派の大悲山光明寺がある。
光明寺は、甲斐武田氏の家臣小山田宗光が、武田氏滅亡後、慶長6年(1601)に出家して宗専を名乗り、この地に創建したと言われている。本尊は阿弥陀如来で、明治7年(1874)から明治9年(1876)まで二子学舎という学校として使用された。境内には、岡本かの子の兄で第2次新思潮同人の大貫晶川(雪之助)の墓がある。
光明寺を過ぎると程なく右手の㈱飯島商店の前に大きな釜が置かれている。
釜の前の立札によると、この釜はNHKテレビドラマ「黄金の日々」 で根津甚八が演じた石川五右衛門を釜茹でにした代物であるという。

溝口緑地 田中屋呉服店 田中屋秤店 灰吹屋
先に進むと右手に溝口緑地がある。
溝口緑地には、島崎藤村揮毫の国木田独歩碑、岡本かの子歌碑、文教大学附属溝口幼稚園・小学校跡地碑があり、緑地の奥に川崎市立高津図書館がある。
溝口緑地を出ると高津図書館入口信号交差点の右手に田中屋呉服店がある。
田中屋呉服店は、明治44年(1911)の建築で、屋根瓦、土壁、東側に土蔵を持つ 「蔵造り」 と言われる建て方で、釘を使わずホゾの組み合わせで材木を組み上げている。
直ぐ先の高津交差点で国道409号線を渡ると、交差点の右角に田中屋秤店がある。
田中屋秤店は、宝暦年間(1751-63)に 「よろずや」 として創業し、その後、江戸幕府から度量衡販売の免許を受け、物差し・秤・升の販売を開始し、現在に至っているという。
店の壁には大山街道解説が貼られており、交差点向かいの川崎信用金庫にも大山街道標識が建っている。
田中屋秤店の隣に灰吹屋の土蔵部分が残されている。保存のための措置か良くわからないが、鉄パイプで足場が組まれ、街道に面しては一面に布で覆われている。
灰吹屋は、延宝2年(1674)創業の東京四谷の総本家灰吹屋より暖簾分けして、明和2年(1765)この地に新たに開店したのが始まりと言う。

大山小径 大山街道ふるさと館 陶芸家浜田庄司生家跡 大石橋・ニヶ領用水
灰吹屋の街道を挟んだ斜向かいに大山小径があり、路面に赤坂御門から大山までのパネルが15枚敷設されている。
大山小径から信号を一つ越えると右手に大山街道ふるさと館がある。当館は、大山街道の歴史・民族・自然などに関する歴史的資料が保存され、無料で展示物を閲覧できる。
館の入口には、文政12年(1829)の大山道道標が建っており、「西大山道、東青山道」 と刻まれ、かつては大山道と府中通が交差する角にあった。
大山街道ふるさと館の隣に陶芸家浜田庄司の生家跡がある。
浜田庄司は、当地の母の実家で生まれ、東京府中一中(現都立日比谷高等学校)、東京高等工業高校(現東京工業大学)を経て、イギリス・日本の各地で窯業を学び、のちに栃木県益子に住み、益子焼の名を高めた。
昭和30年(1955)には我が国最初の人間国宝となった。
先に進むとニヶ領用水に架かる大石橋がある。
二ヶ領用水は、多摩川を水源とし、慶長16年(1611)代官小泉次大夫が14年の歳月をかけて完成させた全長32㎞の用水である。
二ヶ領用水の名前は、江戸時代の川崎領と稲毛領にまたがって流れていたことに由来する

溝口神社 宗隆寺 旧栄橋親柱 浜田庄司の碑
先に進んで溝口駅入口交差点を過ぎると、右手に溝口神社がある。
溝口神社の創建年代等は不詳であるが、神社保存の棟札によれば、宝永5年(1709)武州橘樹郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の造営を僧修禅院日清が修行したと記されている。
境内には、稲荷社・大鷲社・水神宮の境内社のほか、推定樹齢300年以上のクスノキ、推定樹齢500年以上のケヤキなどがある。
溝口神社を過ぎると70~80m先右手筋角に明和3年(1766)の南無妙法蓮華経題目碑が建っており、突き当りに日蓮宗の興林山宗隆寺がある。宗隆寺は、かつて池上本門寺の末寺で、古くは天台宗で本立寺と称していたが、明応5年(1496)日蓮宗に改宗し、宗隆寺と改めた。境内には祖師堂・文政元年(1818)の多宝塔・陶芸家浜田庄司之書碑などがあり、墓所には陶芸家浜田庄司の墓がある。 街道に戻ると直ぐ先の栄橋交差点角に旧栄橋の親柱が保存されている。
栄橋は平瀬川と根方堀(二ヶ領用水)が交差したこの場所に架橋された橋で、ここが溝口村と下作延村の境だったことから 「境橋」 とも呼ばれていた。
旧栄橋親柱の傍らには、旧栄橋の解説・大山街道案内が建っている。
先に進んで南武線の踏切を渡ると、左手の川崎第一ホテル溝ノ口の前に陶芸家浜田庄司の碑が建っている。
碑には 「巧匠不留跡」 と刻まれ、傍らに解説板が建っている。

庚申塔 ねもじり坂 地蔵堂 庚申堂
浜田庄司の碑の川崎第一ホテルへの通路を挟んだ隣に一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。
この庚申塔は、文化3年(1806)の道標を兼ねたもので、「西大山道・東江戸道・南加奈川道」 と刻まれている。
庚申塔の先でやや広い道路を渡り、両側にマンションが建つ道を進んでいくと、左手にねもじり坂が延びている。
入口には坂の案内があり、荷物を運ぶときは、後ろから人が手伝って押さないと登ることが出来なかったという急坂である。
ねもじり坂を登りつめると、左手筋角に地蔵堂が建っている。地蔵堂の前にある案内には、「子育て地蔵は、いわば子授け地蔵でもある。昔、西国巡礼から戻った村人が、子を授かったお礼に建てたという。地元が講を作って守りつづけ、今も、子授けを願う人の姿がみえる。」 と記されている。
境内には、弘化4年(1847)の廻国供養塔・地蔵菩薩・石祠などがある。
先に進んで東急田園都市線の梶が谷駅入口に当たるT字路交差点を過ぎると、左手に庚申堂が建っている。
庚申堂の前には小さな道標があり、「東二子橋方面・西荏原方面」 と刻まれ、御堂には一面六臂の青面金剛の庚申塔が安置されている。

厚木街道 宮崎大塚古墳 庚申坂 宮崎第二公園
庚申堂の先を進むと厚木街道(国道246号線)に突き当たり、梶ヶ谷交差点の横断歩道橋を渡って向かいの旧道に入っていく。 厚木街道を渡り、宮崎中学校入口信号の次の交差点を左に入ると、右手の民家の庭先に宮崎大塚古墳がある。宮崎大塚古墳の詳細は不明であるが、高さは4m、東西南北約25~26mの墳丘である。
墳丘の頂上には、馬絹大塚供養塔と刻まれた石碑が建っている。
先に進むと宮崎団地前交差点の先から急坂の庚申坂となる。この付近は旧道が北側を通っていたようであるが、宅地開発が進んで旧道の面影は残っていない。わずかに坂の名前に庚申堂があったことを伺わせている。
かつて、大山街道の往来が盛んな頃は、相模川のアユを江戸に運ぶ 「鮎担ぎ」 の人足が早朝、庚申堂にお参りして溝口方面に向かっていたという。
庚申坂を下ると、信号交差点から上り坂となり、左手に宮崎第二公園がある。
この先は旧街道に比較的近い道筋を通っていくが、宮前平のコンビニファミリーマート前までは基本は上り坂である。

八幡坂 八幡神社 小台坂 小台公園
コンビニファミリーマート前からは、東急田園都市線の宮前平駅まで八幡坂の下り坂が続いている。 八幡坂を下りきると宮前平駅前の高台に八幡神社がある。八幡神社の創建年代等は不詳であるが、古くから馬絹と土橋の共有地に鎮座していたといわれ、明治43年(1910)馬絹神社に合祀されたが、その後、分宮として奉斎されたという。
境内には、小台稲荷神社・小台庚申堂がある。
宮前平駅前を抜けると宮前平ガード下の先で旧道が復活し、小台坂が南に向かって延びている。現在の小台坂は整備されて道幅も広く、勾配も緩やかとなっているが、往時はかなりの急坂であったという
江戸時代中頃、この坂の途中に観音堂があったが、火事で焼失してしまい、ここに祀られていた観音菩薩は馬絹の泉福寺に移されているという。
小台坂を登り詰めると左手に小台公園があり、街道は公園前を右に枡形に進んでいく。

鷺沼交番前交差点 旧道復帰 阿弥陀堂 迂回路
街道はやや広い道に合流し、直ぐ先でやや北寄りに進んで、この鷺沼交番前交差点を斜めに横断し、信号左手のみずほ銀行の裏に抜けていたようである。 鷺沼交番前交差点を渡り、左手のみずほ銀行脇を左に入ると旧道に復帰し、下り坂の旧道が南に向かっている。 下り坂を進むと厚木街道(国道246号線)に突き当たる。この右手角に阿弥陀堂があり、元禄元年(1688)の阿弥陀如来と宝永元年(1704)の地蔵菩薩が安置されている。
元禄時代、この付近で疫病が流行し、多くの幼い子供たちが亡くなり、その供養と子育てを祈願して、この地の有力者植村家の妻が中心となって建立したと伝えられている。
旧道は阿弥陀堂前から厚木街道(国道246号線)を横断して南西に向かい、牛久保町に抜けていたようであるが、この旧道は消滅しているため比較的旧道に近い道筋を通っていく。

うとう坂 立場跡 血流れ坂 旧道口
迂回路を過ぎて旧道に復帰すると、左手斜面に皆川園の植栽やミカン畑などがあるうとう坂に出る。
うとう坂は、牛久保から牢場谷に下る急坂であった。
皆川園のある場所は、かつて街道の馬の休憩場である立場が置かれていた。
現在は、広い敷地に石燈籠や石材などが置かれている。
うとう坂の延長で牢場谷へ下る坂が血流れ坂である。新編武蔵風土記稿に罪人の処刑場として紹介されているが、実際には関東ローム層から染み出た酸化鉄の錆による赤色の水が流れたことから名付けられたものである。 血流れ坂を下ると県道102号線に突き当るが、横断歩道がないため県道102号線を少し下り、あゆみが丘交差点で渡って、旧道に復帰する。

地下鉄ブルーライン 霊泉の滝 鍛冶橋 庚申堂
先に進むと横浜市営地下鉄ブルーラインの高架がある。
ブルーラインは、神奈川県藤沢市の湘南台駅から横浜市青葉区のあざみ野までを結ぶ鉄道路線である。
緩やかな下り坂を進んでいくと、左手に霊泉の滝がある。滝と言っても竹の先からちょろちょろと流れ落ちる程度であるが、干ばつがあっても水が涸れず、病気の治癒に効果があると云われ、霊泉と呼ばれている。
滝の上にある老馬鍛冶山不動堂は、江戸時代から念仏講が行われてきたという。
先に進むと早渕川に突き当たり、200mほど下流の鍛冶橋を渡っていく。
早渕川は、神奈川県横浜市青葉区に源を発し南東に流れ、下流で鶴見川に合流している。鍛冶橋の直ぐ下流で荏田宿を流れる布川が合流している。
鍛冶橋を渡り先に進むと、左手の林の前に庚申堂が建っている。
この庚申堂は、荏田宿の婦人によって建てられたもので、中には寛政5年(1793)の一面六臂の青面金剛の庚申塔と地蔵菩薩が祀られている。ここは大山街道の道筋で、江戸を発った旅人の一日目の宿場の入口でもあり、道標として親しまれてきたという。庚申堂の右側に布川が流れている。

荏田宿案内図 中宿常夜燈 荏田宿案内図 荏田城址
庚申堂の先から荏田宿の直線の道路が北西に延びている。
荏田宿に入ると直ぐ右手のJA横浜荏田支店の駐車場脇に荏田宿の案内図が掲げられている。荏田宿は江戸から一日目の宿として主に子女連れの旅人に利用され、西に向かって下宿・中宿・上宿の3つにわかれており、文久3年(1863)頃には旅籠・商家など35軒があったという。
先に進むと厚木街道(国道246号線)の手前、右手の民家の庭に中宿の常夜燈が建っている。この常夜燈は、文政4年(1821)の大火の後、文久元年(1861)に火難除けのために秋葉神社を勧請して建てられたものである。
この常夜燈が建つ小泉家は、鎌倉時代から続く旧家で、農業を行いながら豆腐屋を営んでいた。
厚木街道(国道246号線)を渡ると、その先の十字路右角に荏田宿案内図が建っている。
荏田宿は、ここから左に折れている。
先に進んで布川を超えると、右手に荏田城址がある。荏田城は、空堀に囲まれた山城であり、源義経に仕えた江田源三広基が居住したと言い伝えられている。
近くには源三が義経からもらった名馬 「小黒」 をつないだという小黒谷がある。現在は立入禁止になっている。

旧道口 東名高速道路高架 迂回路 旧道復帰
荏田城址を右に見て進むと厚木街道(国道246号線)に合流し、更に100mほど進むと右手に入る旧道がある。
この旧道口には、右手フェンスの植栽の中に隠れた小さな庚申塔が建っている。
庚申塔は、寛保2年(1742)の一面六臂の青面金剛の庚申塔である。
庚申塔の先で東名高速道路の高架をくぐり、その先で東急田園都市線の高架をくぐって江田駅西口を回り込むように進み、更に東急田園都市線の東側に抜け、厚木街道(国道246号線)に出ると80mほど先で、再び東急田園都市線の高架をくぐる。 江田駅を回り込んで厚木街道(国道246号線)に合流し、更に東急田園都市線の高架をくぐると、この先は旧道が消滅しているため、東急田園都市線に沿った道を進んでいく。
旧道は東急田園都市線の北側から南側を通り、再び東急田園都市線の北側に抜けるようなS字を描いていたようである。
東急田園都市線に沿った道を500mほど進むと、右手(西)に分かれる旧道がある。

竹下地蔵堂 猿田坂 旅籠綿屋 八雲神社
先に進んで市ヶ尾小学校南側交差点のY字路を右に折れると、右手に竹下地蔵堂がある。
竹下地蔵堂の創建年代等は不詳であるが、大山街道の往来が多かった江戸中期に建てられたと云われ、石段の横には地蔵尊7体、庚申塔2基、如意輪観音1体が建っており、御堂の脇には稲荷神社がある。
街道に戻って地蔵堂坂下交差点の先を進むと、左手一本目の筋が猿田坂である。
「猿」 は 「去る」 に通じるというので、嫁入り行列はこの坂を通らなかったという。
かつて、ここに道標を兼ねた庚申塔があったというが、竹下地蔵堂にあった 「大山みち・江戸みち」 と刻まれた庚申塔と思われる。
猿田坂を抜けると左手に旅籠綿屋が建っている。この建物は、明治15年(1882)に建てられたもので、2階が張り出した出梁造りの木造建築で、往時の姿を偲ばせている。
旅籠は明治末期に廃業しているが、現在も個人宅として使用されている。街道は旅籠綿屋の右脇を西に進んでいく。
街道を外れて旅籠綿屋の前を右に進み、上市ヶ尾交差点に出ると北東方向の高台に八雲神社がある。八雲神社の創建年代等は不詳であるが、境内後方の谷を隔てたところに横穴式古墳群があることから、村民の信仰の中心として集落の中心の斎場に神社を造営したと推定されている。江戸時代には、牛頭天王社と称していたが、明治初年に八雲神社と改称した。

川間橋 旧道口 一里榎 医薬神社
街道に戻って旅籠綿屋の脇を抜けると鶴見川に突き当たる。
往時は、延長線上に川間吉兵衛が自費で架けた土橋があり、渡り賃3文を取っていたので 「三文橋」 と呼ばれていたという。今は鶴見川に架かる川間橋で渡っていく。鶴見川は、東京都町田市の北部多摩丘陵に源を発し、青葉区を縦断しており、この辺りは谷本川とも呼ばれている。
川間橋を渡って進むと、かつての土橋からの延長線上に当たるところで、右手に入る旧道がある。この辺りは 「大難の辻(おうなのつじ)」 と呼ばれ、昔は急坂だったため医薬神社方面の崖が崩れ、この付近まで土砂が押し寄せたことから、この名が付いたという。 旧道を進むと右手の民家の庭に一里榎が立っている。この榎は一里塚にあったもので、当地の区画整備の際に今の民家に移された。
推定樹齢は600年以上で、幹に縦に入る空洞は、明治3年(1870)の火災の傷跡である。
この先の旧道は、ロイヤルヒルズゴルフクラブの辺りへ抜けていたが、消滅してしているため、医薬神社の前を迂回して行く。
一里榎の先のT字路を左折し、その先のT字路を右折して坂道を登っていくと、右手に医薬神社がある。
医薬神社は、王禅寺の末寺だった東光寺に境内社として創祀され、明治初年の神仏分離令により、寺を廃して医薬神社としたという。

旧道復帰 旧道消滅 迂回路 再勝橋
医薬神社前を左折して、突き当りのT字路を右折すると、一里榎からの延長線上に当たる旧道に復帰する。
この坂道の左手は、ロイヤルヒルズゴルフクラブのショートコースである。ここのグリーンは高速で有名で、ゴルフ部員・プロを目指す研修生が通っているという。
ロイヤルヒルズゴルフクラブの脇を抜けて、その先の坂道を下っていくと、T字路に突き当たり、旧道は消滅している。
往時は、この直線上に街道が延びていたが、現在は住宅地となっているため、ここを左折して直ぐ、ジョナサンの前の信号交差点を右折していく。
信号交差点を右折すると登り坂が続き、その先は左手に工事中の長い鉄板の壁が続いている。
ここは平成30年3月18日に閉店したビバホーム横浜青葉店の跡地である。
先に進んで左手のヤマダ電機テックランド青葉店を回り込むと、信号十字路があり、ここを左折すると厚木街道(国道246号線)を横断する再勝橋がある。この辺りは、尾根を切り崩した切通しで、付近に槐(サイカチ)の木があったことから、橋名になったという。
旧街道は、この辺りを左から右に抜けていたようであり、再勝橋からは大山が見えている。

つつじが丘第二公園 つつじが丘第三公園 青葉台
再勝橋を渡った先の信号交差点を右折すると、左手につつじが丘第二公園がある。 先に進むと左から右に下る坂道の交差点にでるので、ここを右折すると右手段上に、つつじが丘第三公園がある。
この坂通は、「つつじ坂通り」 といい、青葉区制20周年記念事業の一環として地域住民から道路の愛称を募集し、平成26年12月に 「つつじ坂」 と名付けられた。
つつじ坂を下り、その先で厚木街道(国道246号線)の高架をくぐると、青葉台交差点に出る。ここを右折すると東急田園都市線の青葉台駅であり、左折すると厚木街道(国道246号線)の手前から旧街道に復活する。
今回は、ここで終了し、青葉台駅から帰宅の途に就いた。

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