文化10年(1813)の馬頭観世音

延享4年(1747)の道標

文化13年(1816)の庚申塔

享保13年(1727)の一面六臂の青面金剛の庚申塔

左大山道(左面)・右府中通(右面)

東ハ赤坂道(左面)・庚申供養西ハ大山道(正面)・右めくろミち(右面)

北府中道(左面)・東目黒道瀬田村(正面)・南六かう<六郷>道(右面)

右登戸道(左面)・左さがみ(正面)

明治32年(1899)の山吉講富士登拝記念碑

天保7年(1836)の標石

文政10年(1827)の庚申塔

弦巻5-16-31の三叉路あった延享3年(1746)の大山道道標

母屋内部

白州跡

白州通用門

 江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(2,300石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。
 大場氏は中世に世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留まり帰属していました。寛永10年(1633)、井伊家が世田谷領15箇村(後に20箇村)を拝領した際に、代官に起用されました。以後、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきました。
 屋敷は江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約70坪(約231.4㎡)、茅葺きの寄棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時の代官屋敷の面影を伝えています。
   (東京都教育委員会)

右江戸道(右面)・左り世田ヶ谷四ッ谷道(左面)

品川領用水御普請所(正面)

大場家母屋

世田谷代官屋敷解説

茅葺の表門