左り世田谷四ツ谷道(左面)・庚申塔(正面)・右江戸道(右面)

 中国の道教では、人間の体内にいる三尸(さんし)が庚申の夜に抜け出し、天帝にその人の罪過を告げるというので、庚申の夜には身を慎んで徹夜をせよと説いた。この守庚申の信仰は、日本に伝わり奈良・平安時代には宮廷を中心に広まったが、民間に浸透するにあたって仏教や神道の影響を受け変容した。江戸時代には庚申堂が建てられ、庚申講が組織されるようになった。
 この庚申塔は用賀村下講中によって建立されたもので、道しるべの役割を持つ、ものである。青山大山道が三軒茶屋で二手に分かれて用賀三丁目で再び合流する地点にあったものである。交通量の増加に伴って、一時真福寺境内に保管されていたが、同寺から当館へ寄贈されたものである。

用賀追分にあった文政10年(1827)の庚申塔

左が大山街道上町線、右が大山街道新町線

大山道追分碑 (道標跡碑)

大山街道新町線