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大山街道   (行善寺線


平成31年1月18日(金)   ☀    延命地蔵尊~二子の渡し    2.0㎞
用賀追分で古い大山街道と合流し、用賀の駅前を通って田中橋で東名高速の高架下を潜って先に進むと、Y字路に延命地蔵尊があり、前回はここを右に進んだが、今回は左に進んで行く。

延命地蔵尊 瀬田交差点 偶像 旧道口
大山街道はここで二手に分かれ、右が古い慈眼寺線、左が新しい行善寺線である。
この延命地蔵尊は、安永6年(1777)用賀村の女念仏講中によって建てられたものである。
延命地蔵尊から200mほど先で瀬田交差点に突き当たり、街道は斜めに横断しているため、横断歩道橋で渡っていく。 横断歩道橋を渡り、直ぐ先で左に分岐して進むと、右手の歩道脇にプレーリードッグの偶像が建っている。 偶像の斜向かいから南に分岐する旧道口があり、旧道を進むと、右手の植栽の中に樹庭跡地の碑が建っている。
ここは樹庭と呼ばれる数多くの緑の大樹が鬱蒼と茂る、国分寺崖線上の景観の優れた場所であった。

行善寺 行善寺坂 行火(あんか)坂 法徳寺
行善寺は浄土真宗の寺院で、獅子山西光院と号する。行善寺は、永禄年間(1558-69)に法蓮社印誉上人伝公和尚の開山で、長崎伊予守重光(法名行善)が開基である。長崎氏は北条氏の家臣で、天正18年(1590)に北条氏が没落したときに瀬田に土着したという。
境内奥は展望に恵まれ、江戸時代から玉川八景として有名であり、将軍も立寄ったと言われている。
行善寺から二子の渡しへ下る坂道が、行善坂の急坂である。 行善寺坂を下っていくと、左手に行火坂があり、入口に行火坂碑が建っている。
坂の名前の詳細な説明はないが、この急坂を上るだけで身体が温かくなることから、行火(あんか)坂と呼ばれたようである。
行火坂を上り詰めると、左手に浄土宗の福来山法徳寺がある。法徳寺は、永禄元年(1558)に法阿因公和尚によって開山され、開基は瀬田の旧家の祖先である白井法徳(重安)である。白井法徳(重安)は、足利義明の家来であった白井基経の子である。
境内には、寺子屋の師・大塚貞三郎のために建てた筆塚、地蔵堂、歌手・江利チエミの墓などがある。

調布橋 南大山道道標 陸閘(りっこう) 二子の渡し跡
街道に戻って更に下ると六郷用水(丸子川)に架かる調布橋がある。
六郷用水は、別名次大夫堀、丸子川と称し、徳川家康の命により多摩川左岸の六郷領を潤す農業用灌漑用水路として開削されたものである。
調布橋の渡り詰めを六郷用水に沿って50mほど進むと、六郷用水脇に南大山道道標が建っている。
道標は、安永6年(1777)に瀬田村の講中により建てられた庚申塔で、「南大山道、右東目黒通、左西赤坂道」 と刻まれている。
道標の向いの細い路地を進んで、二子玉川駅の前を抜けると、道路と平行に堤防が続き、その堤防に開いたレンガ造りの通路が陸閘(りっこう)である。
かつてこの堤防の多摩川寄りに田畑や料亭があったが、川辺に向かう人馬のため堤防の一部を削った通路が陸閘である。水位が上昇した時はここを手動で締め切って水の流入を防いだ。
陸閘(りっこう)を抜けて進むと、多摩川の堤防に突き当たり、その手前の区立玉川福祉作業所の前に二子の渡し跡碑が建っている。
ここまでが大山街道の行善寺線である。

多摩川 兵庫島公園
二子の渡し跡から堤防を越えると多摩川の河川敷に出る。
ここから前回(H30.11.23)寄れなかった二子橋の上流にある兵庫島公園へ行ってみることにした。
兵庫島公園は、多摩川の河川敷内にあり、川が増水したときは利用できなくなる。
天平13年(1358)に新田義貞の次男である新田義興が、江戸遠江守の策略によって足利方軍勢に攻められ自害した際、家臣の由良兵庫助・新左衛門の兄弟は、刀を逆手に取り直して互いに自分の首を切り落とした。その壮絶な死に村人たちは災いを恐れて、こっそりとこの島に兵庫助を供養したことから、この名が付いたと言われている。